「とても似合っているわよ、伊丹。」
よく晴れたある日。
眩い陽の光のような笑顔を向けるふゆはとは対照的に、伊丹の表情はどんよりと曇っていた。
「…あのですね、ふゆはさん…。確かに術が上達したお祝いという意味でお願いを一つ聞いてあげますとは言いましたが…、」
万華鏡神社の小さな仕事部屋にて、愛弟子のふゆはに渋々と語る神主の伊丹は、狩衣を装ったいつもの姿ではなかった。
「さすがに…僕に女性の装いをさせるのは…、」
柳緑色の長髪は、花の髪飾りが施されて緩く結われていた。
更に、女物の色鮮やかな着物を着せられ、その姿はまさに女性と言われても違和感のないほど美人なものだった。
「あら、何か問題だったかしら?」
「いえ、まあ…言いたいことは山ほどありますが…。」
キョトンとするふゆはに、伊丹は狐耳を下げながら頭を抱えた。
これはふゆはが望んだもので、そもそもその願いを聞くと言い出したのも自分の方だ。
なにより、可愛い愛弟子…もとい、血は繋がらなくとも可愛い可愛い愛娘の喜ぶ顔が見れるならばそれで良いのだ。
と、伊丹は反発する思いに争いながら、なんとか自らを納得させていた。
「…ひとまず、満足していただけましたか…?」
「そうね…。」
まるで珍しいものを眺めるようなふゆはの眼差しに、伊丹は少々居心地の悪さを感じていた。
否、ふゆはに見つめられるならば、それはもう四六時中でも見てもらって構わない。
だがしかし、いつもの髪型で狩衣を着ていないと、やはり心が落ち着かなかったのだ。
いそいそと、伊丹は立ち上がろうとする。
妙な緊張感のせいか、脚の痺れを感じていた。
「では、そろそろ元の狩衣に着替えさせても…、」
「ダメよ、せっかく着てもらったのだから、みんなにも見てもらわないと…、」
そう言いながら、伊丹よりも早く立ち上がろうとするふゆは。
しかし、ふゆはが発した言葉に反射するように、伊丹も負けじと立ち上がる。
じんじんと痺れる脚に、伊丹は内心悲鳴を上げていた。
「いけません!!こんな姿を見られたら、間違いなく妙な勘違い…を…、」
伊丹はふゆはの華奢な肩をガシッと掴み、それ以上の行動を阻止しようとする。
ふと、伊丹は掴んだ肩が小さく震えているのを感じた。
「………私の…お願い…」
狐耳をペタンと下げ、目に涙を溜めながらフルフルと震えるふゆはに、伊丹はハッとした。
ふゆはの為を思って女装したというのに、こんな事で彼女を悲しませるなど愚の骨頂である。
伊丹は僅かな沈黙を得て、決死の打開策を考案した。
「う…、では一人くらいなら…。」
「一人…。なら、誰なら良いかしら…?」
困り果て悩む伊丹を前に、ふゆはの涙は幻だったかのように引いていた。
「そうですね…、ナギなら一番感想も薄そうですし、まあ良しと…、」
「あ、幻洛よ。」
「は?」
ウンウンと一人納得して出した伊丹の考案を無にするかのように、ふゆはは襖の外を向いていた。
そこには、万華鏡村の巡回から戻ってきたばかりの幻洛が、神社の縁台に腰を掛けて休息していた。
伊丹が状況を理解する頃、今まで目の前に居たふゆはは忽然と姿を消していた。
「幻洛〜、ちょっと来てほしいのだけれ…」
「ふゆはさん!!待ちなさい!!」
開いた襖から幻洛を呼ぶふゆはを、伊丹は羽交い締めにしながら渾身の力で部屋に引き戻す。
「ええいもう!何でよりによって幻洛さんなんですか!」
ズルズルと引きずり戻されながら、ふゆはは不思議そうに疑問符を浮かべていた。
「だってそこに居たから…」
「確かにその通りですが!」
紛うことなき正論に、伊丹はそれ以上の返す言葉が見つからなかった。
幻洛のことだ、きっとこの女装姿を見れば、情けなくも頬を緩ませて惚気てくるに決まっている。
そして、そんな幻洛を期待している自分自身に、伊丹は一層の恥ずかしさを感じてしまっていた。
何より、愛弟子かつ愛娘でもあるふゆはの前で、互いの惚気た光景など見せられるはずがなかった。
そうだ、今のうちに術を使って何とかすれば…。
伊丹はそう思うも、時は既に遅かった。
「どうしたんだ、ふゆは。随分と騒がし…、」
「!!」
一際響く重低音の声に、二つの妖狐はしんと静まり返る。
そして幻洛もまた、目の前の光景に言葉を失った。
「…。」
沈黙のまま、幻洛は女装姿の伊丹を見つめ、伊丹は気まずそうに頬を赤く染めながらひたすら俯いていた。
「どう?似合っているでしょう?」
そんな伊丹を知ってか知らずか、ふゆはは自慢気に幻洛へ紹介する。
「…伊丹、か…?」
「…。」
聞かずとも分かっているが、言わざるを得ない。
幻洛は暫しの間、棒立ちで伊丹を見下ろしていた。
「…美人過ぎて言葉が出ないな…。」
「…この愚か者…。」
「なる程、確かに伊丹だな…。」
ようやく伊丹らしい反応が見れて満足したのか、幻洛はニヤける口元を手で覆いながら頷いていた。
目の前に座り込み、ジロジロと楽しそうに見つめてくる幻洛に、伊丹は頬を赤く染めながら目を合わせないように顔を背けていた。
「…ふゆはさんも、これで満足していただけましたか?」
「ええ、そうね…。」
ため息混じりの伊丹に、ふゆははようやく納得を示した。
「…やっぱり、伊丹に着てもらって良かったわ…。」
「?」
願いが叶い安堵するようなふゆはの言葉に、伊丹は首を傾げた。
「私には、父上や母上との記憶があまりないから、…こういうことを言うのは変かもしれないけれど、仮に母上という存在が今も有るとしたら、こんな気持ちになれたのかもしれないわね、なんて…。」
「…!」
その言葉に、伊丹は言葉を詰まらせた。
ふゆはは幼き頃、父親を戦で失い、その後母親も病により失っている。
千年以上の時が経ち、本当の親と過ごした記憶が薄れるにつれ、彼女は言葉にせずとも、何らかの不安を感じていたのだろう。
「ふゆはさん…。」
先ほどまでとは別の意味で表情を曇らせる伊丹に、ふゆはは変わらず優しい笑顔を見せた。
「…それに、私以外の誰かに見てもらうことができて良かったわ。ちゃんとこの記憶を共有できる者がいる…それだけでも違うから…。」
「…。」
ふゆはは親の愛を求めていた。
そうとは知らずに、長年彼女の師であり、親代わりを務めていた伊丹は、心が締めつけられるのを感じていた。
もし、幻洛のような覚の力を持っていれば、もっと早く彼女の思いを汲み取ることが出来たのだろうか。
「ありがとう、伊丹。私のお願いを聞いてくれて…。」
ふゆははフワリと笑みを向けた。
伊丹にとって、その笑顔がとても嬉しくて、辛かった。
「正直、ナギと劔咲と裂にも見てもらいたかったのだけれど。」
「う…、」
「フフッ、いいのよ。幻洛と一緒に見ることが出来ただけでも満足しているから。…ね?幻洛。」
ふゆはが振り返ると、そこには石造のように目を点にしたまま沈黙する幻洛の姿があった。
「…幻洛、やけに静かだけれど、大丈夫?」
ふゆはが目の前で手をヒラヒラと動かすと、幻洛はようやく瞬きをパチパチとさせた。
「ああ…、息をするのも忘れるくらい見蕩れていた…。」
未だ見蕩れたままの幻洛は、溜め込んでいた息を吐きながらうっとりと伊丹を眺めていた。
「幻洛さんはそのまま窒息してどうぞ。」
「そう照れるな伊丹。」
「照れてませんし。」
伊丹はそのままプイッとそっぽを向いてしまった。
わかりやすい照れ隠しに、幻洛はますます顔を緩ませた。
「フフッ…。」
どこか懐かしく感じるその光景に、ふゆはは静かに笑っていた。
………
「はあ、やれやれ…。」
一連の騒ぎを終えてようやく解放された伊丹は、いつもの狩衣に着替えるべく自室へと戻っていた。
「伊丹。」
「…もう、ついてこないで下さい…。」
自室に入ると、間もなく幻洛も一緒に入ってきた。
トン、と軽い音を立てて襖が閉ざされる。
「そんな姿を見せられたらついていかないはずが無いだろ。」
「先に言っておきますが僕の趣味ではありませ…、!」
突然、背後から幻洛に抱きしめられ、伊丹は言葉を詰まらせた。
「…そんなことはわかっている。ふゆはのためだろ…?」
「ん、…そうですが…。」
耳元で囁かれる重低音の声と、先程までとは違う”雄”を含ませた幻洛の気配に、伊丹はビクンと身体を震わせた。
「っ…、ちょっと、幻洛さん…。」
「…欲情した…。」
「もう…。」
着物をまさぐりながら頸に顔をすり寄せる幻洛に、伊丹は身体の奥底が熱く疼くのを感じていた。
幻洛は伊丹を抱きしめたまま、緩く結われた柳緑色の長髪に指を絡め、伊丹という存在を堪能するようにうっとりと女装姿を眺める。
その金眼の奥底には、ギラギラとした雄の欲望が潜んでいた。
「フッ…ふゆはには感謝しないとな…。」
伊丹は半ば呆れながらムッと振り返る。
「ふゆはさんをだしに使わないで下さい。」
「だが、そうでもないとお前のこんな姿など見れなかっただろ?」
「…。」
ふゆはが伊丹の女装を望んだ理由。
それを思い出し、伊丹は複雑そうに俯いてしまった。
「…ふゆはさんは親の愛を求めている…。でも、僕は彼女の本当の親にはなれないんです…。」
どんなに彼女に寄り添おうとも、自分はただの親代わり。
それ以上の存在になれるなど、あり得ないことだ。
「伊丹はどうなんだ?」
「?」
表情を曇らせながら俯く伊丹を抱きしめながら幻洛は問いかける。
「ふゆはに対する愛情は偽りなのか?」
「いえ、そんなことは…、」
「なら、いいんじゃないか?」
あまり根を詰めすぎるな、と幻洛は静かに笑った。
密着した身体に振動する幻洛の声に、伊丹は不思議と心地良さを感じていた。
「本当の親でありながらも親としての愛情が無いヤツより、本当の親でなくても親になろうとする気持ちや愛情を持っているヤツの方が、俺は良いと思うがな。」
「!」
幻洛の言葉に、伊丹は己の気持ちを考え直させられる。
伊丹自身、物心がついたときから妖狐の孤児院で暮らしてきた。
故に、本当の親がどのような存在だったのかは分からない。
しかし、特別に逢いたいという想いも、本当の親に対する関心も一切無かった。
それに差し替えられるように蘇る、孤児院で世話になった大人の妖狐たちとの記憶。
そして、その後の養子となった、ふゆはの祖父母との記憶。
彼らは本当の親ではなかったが、その暖かな愛情は今でも鮮明に覚えている。
幻洛の言うことは、あながち間違っていないのかもしれない。
「あっ…!ちょっと…、」
グイ、と一層強く抱きしめられ、伊丹の身体が強張る。
さわさわと胸元から下腹までを撫でさすられ、頸に感じる幻洛の欲を含ませた吐息に、伊丹は心の臓が一層高鳴り、じわりと体温が上がるのを感じた。
「…伊丹…綺麗だな…。」
背中から撫で上げられるような雄の声に、伊丹はゾクゾクと身体を震わせる。
「んっ…、もう…こんな時間からお戯れが過ぎます…。」
「フッ…欲情したと言っただろう…。」
グイグイと腰を押し付けられ、尻尾の付け根に感じる固く熱を帯びた雄の塊に、伊丹は声が漏れそうになるのを必死に堪える。
そんな伊丹の反応を楽しむように、幻洛は首筋から肩口まで、啄むような甘い口付けを落としていく。
「…ふゆはの親代わりになれるなら、伊丹が母親で、俺が父親だな…。」
「は、…何を言っているのやら…。」
伊丹は平静を装いながら、呆れたような口調で溜息をつく。
そのため息は、情事を思わせるほど熱いものだった。
「…ふゆはさんの父君になりたいなら、もう少し節度を持ってもらいたいですね…。」
「ん、それなりの努力はしよう。」
「全くもう…。」
伊丹は、相変わらず背後から首筋に顔を埋めている幻洛の紺桔梗色の頭を優しく撫でる。
指に纏わり付く柔らかで暖かな髪質と、密着して抱きしめる幻洛の逞しい身体に、伊丹は夢心地になっていた。
ふゆはの父親は、とても強くて勇敢な剣士だった。
そして、何よりもふゆはとその母親のことを愛していた。
…というのを、ふゆはを弟子として迎えるよりも遥か昔、彼女の祖父母からよく聞いていたものだ。
強くて、勇敢で、何よりも妻と娘を愛していたふゆはの父親。
不思議と、どこか幻洛と似たような部分を感じていた。
幻洛に気付かれぬよう、伊丹は静かに笑みを零しながら瞼を伏せる。
彼が父親代わり、自分が母親代わり。
それもまた悪く無い、と思いながら。