【外伝】幻洛と伊丹が出会うまで(後編)
- サバミソ
- 2024年1月25日
- 読了時間: 15分
更新日:2月23日
爽やかな朝の日差しが客間に入り込み、幻洛は目を覚ました。
窓から見える美しい景色には、黄金に輝く太陽がゆっくりと山から登るのが見えていた。
朝の日差しとは、これほどまでに美しいものだったのか。
かつての村では気に留めることすらなかったことに、幻洛は静かに驚いた。
暖かな布団に名残惜しさを感じながらも、幻洛はいつもの服に着替えると、昨日と同じ居間へと向かった。
「あ、幻洛さん、おはようございます。」
「おはよう、幻洛。」
幻洛は居間に行くと、そこには伊丹とふゆはの姿があった。
「…ああ、おはよう。」
まるで家族ができたような感覚に、幻洛も朗らかな思いに浸った。
卓袱台には、出来立ての朝食が美味しそうに並んでいた。
「丁度、呼びに行こうと思っていたところです。さ、いただきましょう。」
そう言うと、伊丹は卓袱台の前に座り込んだ。
「いただきます。」
「ああ、いただこう。」
伊丹に続くようにふゆはと幻洛も卓袱台の前に座り、各々朝食を食べ進めていった。
幻洛は煮物を一口食べると、その美味しさに頷いた。
「…前から思っていたが、美味い飯だな。伊丹やふゆはが作っているのか?」
「僕たちというより、僕の式神たちが遣り繰りしているんですよ。」
幻洛の食べっぷりに、伊丹は嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、あと朝から幻洛さんの寝床や服も調達させていますので。…もうすぐ戻って来るはずなのですが。」
「そうなのか…。」
度々聞く”式神”という存在について、幻洛はいまいち掴みどころがなかった。
「その式神というのは、全て伊丹の力で動かしているんだろ?疲れないのか?」
「厳密に言うと意識は共有していますが、基本的には彼らの自我で動いてもらっています。故に、僕への負荷も最小限に抑えられているのですよ。」
伊丹は誇らしげにニコニコと答えた。
「そうか、よくわからんが…凄いな…。」
雲を掴むような回答に、とりあえず幻洛は自らを納得させた。
おそらく、伊丹と同じ道に長けている者であれば理解できるのだろう。
「ふゆはも式神が使えるのか?」
幻洛はふと、傍らに座り、焼き魚をもぐもぐと食べるふゆはに問いかけた。
「…一応、でも、伊丹のように多くの式神を繰り出したり、自我を持たせることはできないわ。…それほど、伊丹の力は凄いのよ。」
「そうなのか…。」
ふゆはの言う通り、伊丹は相当強い術者なのだろう。
…昨晩の話のように、帝のお墨付きを貰っているのであれば尚更か。
「ふふ、いずれふゆはさんにも出来るようになりますよ。僕の愛弟子なのですから。」
まるで娘を溺愛する親のように、伊丹はふゆはに笑みを向けた。
「はいはい、そうね。」
何度も聞いたと言わんばかりに、ふゆはは伊丹の話を軽く受け流した。
………
朝食を終えた幻洛は、いつものように客間で一休みしていた。
「…幻洛さん?入ってもよろしいでしょうか?」
「ああ。」
襖の外から聞こえる伊丹の声に、幻洛は返事をした。
その返事を合図に、客間の襖がスッと開かれる。
「失礼します。調達していた新しい服をお届けに上がりました。」
そう言う伊丹の手元には、真新しい黒い服があった。
「ああ、すまない。礼を言う。」
幻洛は身を起こすと、伊丹からその黒い服を受け取った。
そのまま幻洛は、受け取った服を広げてしみじみと眺めた。
「…身丈などは元々着られていた寸法と同じなので大丈夫かと思いますが…。」
「…。」
伊丹の言葉を聞いた幻洛は、早速、と言わんばかりに今の服を脱ぎ始める。
「え、あっ…!い、今着替えるのであれば僕は廊下に下がっていますね…!」
途端に、伊丹は酷く動揺した。
まるで先日、着替え中の幻洛と風呂場で出くわした時のようだった。
「ん?いや、男同士なのだから別にここに居てもらっても構わんが…?」
特に気にする様子もない幻洛は、服を脱ぎながらも頭に疑問符を浮かべた。
慌ただしくも襖に手をかけた伊丹は、幻洛の呼び止めに困ったようにぺたんと座る。
「あ、いえ、その…、あ、あの、こちらも良かったらお使い下さい…。」
顔を赤くし困り果てる伊丹は、おずおずと手元にあるものを差し出した。
そこには、細長い紐と赤珊瑚で作られた煌めく装飾品があった。
「髪留め、か…?」
幻洛の問いに、伊丹はこくんと頷いた。
「…幻洛さんも、僕のように髪が長いのであったほうが良いかと…。不要であればご放念ください…。」
「いや、ありがたく使わせてもらおう。」
幻洛は伊丹からの贈り物を嬉しそうに受け取った。
幻洛は髪留め用の紐を咥えると、長く量のある癖のついた紺桔梗色の髪を掻き上げた。
久方ぶりに風呂に入ったことにより、その長髪は艶を取り戻していた。
一通り髪を纏め上げると、咥えていた紐でぐるりと髪を縛り、赤珊瑚の装飾品を上から被せた。
「…。」
そんな幻洛の仕草に、伊丹は時が止まったように見つめていた。
「…髪を結うというのも、随分と久しぶりだな…。」
毛量のある髪を一本に纏め上げた幻洛は、どこか懐かしむようにフッと笑みを浮かべた。
幻洛は脱ぎかけだったかつての服を改めて、新調された服へと着替えた。
「どうだ?」
新しい服に着替えた幻洛は、伊丹に見せつけるように笑みを向けた。
元々の体格の良さを、漆黒の衣装が更に魅力を引き立てていた。
「…よく、お似合いです…。」
自らの白い狩衣とは対になるような黒い服に、伊丹は頬を赤らめつつ口元を隠しながら、新衣装を纏う幻洛を眩しそうに見ていた。
「そうか、なら良かった。」
しおらしくなる伊丹を面白がるように、幻洛はフッと静かに笑った。
伊丹は改めるようにコホンと咳払いをするとスッと立ち上がる。
「…あと、幻洛さんのお部屋も整いましたので、良かったらご案内しますね。」
「ああ、よろしく頼む。」
幻洛は自前の薙刀などを手に持つと、そのまま伊丹に連れられるように客間を後にした。
………
「…。」
屋敷の渡り廊下を歩いていると、吹き抜けるような景色に幻洛は足を止めた。
真っ白い雪の残る広大な庭園。
その庭園を囲む塀の先には、上空の空気に溶け込む豊かな山々が連なっていた。
「…立派な庭、だな…。」
「え?」
幻洛の呟きに伊丹も足を止め、ふっと振り返る。
伊丹は幻洛と同じ方角を眺めると顔を綻ばせる。
「ああ、この庭は腕の良い庭師が設計されたのですよ。春になると桜も綺麗で…。」
「そうか、それは是非見てみたいものだな…。」
伊丹の言葉に、幻洛はこの先の季節に期待を寄せた。
暫くの間、幻洛と伊丹は共に並んで雪化粧をした庭園を眺めた。
「…。」
チラリ、と幻洛は傍にいる伊丹に目をやった。
切り揃えられた前髪と、触れてみたくなるほど艶めく柳緑色の長い髪。
そして不思議と惹きつけられる、中性的な顔立ち。
真っ白な雪を写す瑠璃色の右目は、まるで宝石のように輝いていた。
「………綺麗だな…。」
「え?」
「あ、ああ、いや、なんでもない。」
溢れた心の声に、幻洛は思わず動揺した。
初めて感じる余裕のない心の高鳴りに、幻洛は落ち着きを取り戻すようにグッと口を噤んだ。
「あ、幻洛さんのお部屋はこちらになります。」
そんな幻洛をよそに、伊丹は優しく微笑むと部屋への案内を再開した。
「…。」
この晴天と、反射する周囲の雪のせいだろうか。
幻洛にとってその笑顔が、とても眩しく感じられた。
伊丹に連れられた幻洛は、これから自らの部屋になる場所へとたどり着いた。
「さ、どうぞ。」
「…!」
襖を開けると、そこには十畳ほどの部屋があった。
そして縁側からは、先ほどの渡り廊下とは異なる雰囲気の広大な景色が見えていた。
「…こんなに良い部屋を貰っていいのか…?」
想像を遥かに超えた贅沢な部屋に、幻洛は目を疑った。
かつての村で暮らしていた小屋とは雲泥の差だ。
「勿論ですよ。…元々は神社の資材を置くだけの部屋だったので、どうぞご自由にお使い下さいね。」
伊丹は悠々とした面持ちで幻洛に伝えた。
「あ、あとこの廊下の向かい側がふゆはさんのお部屋で、突き当りが僕の部屋になります。昼は基本的に神社の方に居ますが…、何かあれば遠慮せずお越しくださいね。」
伊丹はそう告げると、いつものように暖かな笑みを向けた。
「ああ、わかった。」
伊丹たちの暮らしぶりがようやく見えてきた幻洛は軽く頷いた。
「…早速だが、今日も少し村の方に出向いても良いか?」
まだ日は昇ったばかりだ。
昨日回れなかったところも見てみたいと幻洛は思っていた。
「え、では、僕も…、」
「いや、今日は俺だけで見回らせてほしい。…伊丹も神社の仕事があるんだろ?」
流石に連日伊丹の時間を奪うのもよくないと思った幻洛は、彼の気遣いをやんわりと断った。
「…そう、ですが…、」
伊丹は心配そうに呟いた。
「大丈夫だ、お前から貰った護符も持っている。それに…、」
幻洛は昨日受け取っていた護符を見せると、黄金色の目で伊丹を捕らえた。
「必ずここに帰る。」
「!」
優しく、そして重低音の声に、伊丹は少しばかり動揺した。
伊丹は頬を赤らめ、困ったように目をそらすと、決心するように深呼吸をした。
「…わかりました。幻洛さん、お気をつけて…。」
伊丹は心配そうな目で幻洛を見上げた。
「ああ、行ってくる、伊丹。」
それに応えるように、幻洛も黄金色の目で伊丹を見つめた。
幻洛はフッと笑みを向けると、そのまま背を向け、屋敷の玄関の方へと歩いていった。
「…いってらっしゃいませ、幻洛さん…。」
伊丹は小さく呟くと、幻洛の姿が見えなくなるまで彼を見送った。
………
「…商店街、か…。」
手始めに昨日と同じ商店街を訪れた幻洛は、改めてその活気の強さを感じていた。
「あ!幻洛様!」
「え!あれが噂の…!?」
「おー!幻洛さん!今日も来てくれたんだね!」
村民は一目幻洛を見つけるなり、連鎖するように声をかけてきた。
また昨日と同じように、幻洛の周りにはあっという間に人集りが出来上がった。
「…ああ、実は訳あって、この村に住まわせてもらうことになった。故に、今日からこの村の見回りもさせてもらうことになった。…皆、よろしく頼む。」
幻洛は皆を見渡すようにしながら話した。
「え!?幻洛様、これからもここに来てもらえるってこと…!?」
「ひえ…生きる希望が増えた…。」
その言葉に、一部の女のアヤカシは感極まるように打ち震えていた。
「そりゃあ嬉しいね!ほら!記念にこれ持ってきな!」
気前の良いそのアヤカシは、自身の店で売っている高価そうな酒を幻洛に手渡した。
「…ああ、すまない、礼を言う。」
思ってもいなかった歓迎の声に、幻洛は困惑しながらもその酒を受け取った。
「!!」
「あ、あ、あの!!私からも!!突然過ぎてこれしか無いけれど…、」
その姿を見ていた別の女のアヤカシたちは一斉にざわつき、貢ぐように菓子折りの入った箱を幻洛に手渡した。
「ん?ああ、…ありがたく頂こう。その思いだけで十分だぞ。」
熱い好意に、幻洛は少し困ったようにしながらも笑みを向けた。
幻洛の笑みにやられたかのように、その女のアヤカシは膝から崩れ落ちた。
「…ひい…尊すぎて…もう悔いはない…。」
「ちょっとアンタ!しっかりして!」
傍らのアヤカシは、崩れ落ちる彼女を必死に介抱していた。
かつての村とは比べ物にならないくらい、とても明るく、朗らかな光景だ。
「…。」
幻洛はその光景をじっと見ていた。
純粋に喜びたい。
けれど、
ーーー心の何処かで、村民の笑顔を全く信用できていない自分が居た。
………
すっかりと日の落ちた頃。
万華鏡村を一通り散策し終わった幻洛は、伊丹たちの待つ屋敷へと帰宅した。
「あ、幻洛おかえり…ってどうしたのその荷物。」
幻洛の帰りを待っていたふゆはは、その手荷物の多さに静かに驚愕した。
その荷物、もとい手土産は、肩で抱えるほど山積みになっていた。
「ああ、なんだかよくわからんが、村民から色々貰ってしまった…。」
「随分とたくさん貰ったのね…。」
幻洛はそのまま居間へ行くと、抱えていた大量の手土産を降ろしていった。
「幻洛さん…!」
幻洛の帰りに気付いた伊丹は、足早に彼の元へと駆け寄った。
「ああ、伊丹、今帰った。」
「あっ…おかえりなさいませ。…大丈夫でしたか…?」
ふゆはに気取られぬよう、伊丹はひっそりと心配そうに声をかけた。
「大丈夫だ。…本当に、気前の良い村民ばかりだな…。」
そう言うと、幻洛は困ったように笑いながら大量の手土産に目をやった。
「…。」
そんな幻洛の様子を、伊丹は黙って見ていた。
伊丹は思い出すようにハッと声を掛ける。
「あ、ご飯にしますか?それとも、お風呂に…?」
まるで誰かの女房のような言葉に、伊丹は自分で言っておきながら恥ずかしさでいっぱいになった。
「…そうだな、先に飯が食いたい。流石に腹が減った…。」
幻洛は持ち前の薙刀を壁に立てかけながら答えた。
「私も、お腹が空いたわ…。」
幻洛に続くように、ふゆはも空腹を伝えた。
「では、ご飯にしましょう。」
伊丹は手早く式神を繰り出し、指示を出していった。
………
夕食後、風呂から上がり着物へ着替えた幻洛は、新しい自室で寛いでいた。
「…。」
幻洛は真新しい布団の上にごろりと寝転ぶと、村民たちのことを思い返していた。
『記念にこれ持ってきな!』
『あの!!私からも!!』
あれほどまでに村民たちは歓迎し、数々の手土産も手渡してきた。
きっとこれからも、顔を合わす度にあの笑顔で迎えられるのだろう。
だというのに、彼らを心から信用することができない。
きっと、あの笑顔もうわべだけのものなのだろう。
そう思い込んでしまうこの本心が酷く憎かった。
それでも、何故だろうか。
『僕の、大切なアヤカシです。』
伊丹の笑顔は、儚くも美しいあの笑顔だけは、余裕が無くなりそうなほど心を高鳴らせる。
一番、彼の世話になっているからなのだろうか。
否、それだけではなく、もっと特別な感情がーーー
「幻洛さん?今、よろしいでしょうか?」
突然、襖の外から聞こえる伊丹の声に、幻洛の思考が現実へと戻される。
「ああ、入って構わんぞ。」
幻洛は邪念を捨てるように咳払いをすると、伊丹を招き入れた。
「失礼します…。」
幻洛の返事に襖を開けた伊丹は、そのまま部屋へと入ってきた。
「!」
おそらく湯浴みを済ませた後なのだろう。
伊丹は柳緑色の髪を下ろし、着物姿だった。
「…。」
髪を結い、狩衣姿の伊丹しか知らなかった幻洛は、初めて見る彼の姿に再び邪念が湧き上がるのを感じていた。
何故こうも、伊丹の前では余裕のないほど心臓が高鳴るのか。
「今日は本当に…大丈夫でしたか…?」
そんな心境を知るはずもない伊丹は、幻洛の傍らに座ると心配そうに声をかけてきた。
「ああ、大丈夫だ。」
幻洛は答えるも、目の前の光景に若干上の空だった。
とりあえず一旦落ち着こうと、幻洛は軽く咳払いをした。
伊丹はおずおずと幻洛に視線を向けた。
「…お節介なことばかりしてすみません…。過去の件を思うと、心配で…。」
「…なんだ、そんなことを気にしていたのか。」
落ち着きを取り戻した幻洛は、相も変わらず心配する伊丹にフッと笑みを向けた。
「…俺のことをこんなに想ってくれる者がここに居る。それだけで俺は十分に救われている…。」
「それなら良いのですが…。」
不安の拭えない表情で、伊丹は視線を外した。
暫くの間、沈黙が続いた。
「そんなことより、俺も、ずっと気になっていたのだが…、」
そう言われ、伊丹は幻洛に視線を戻す。
暫く間を置くと、幻洛は口を開いた。
「その怪我は大丈夫なのか?」
ほんの一瞬だけ、その場が凍りついたような気がした。
「…。」
その言葉に、伊丹は返答することが出来なかった。
伊丹の心境を知る由もない幻洛は、そのまま言葉を続けた。
「…いや、えらく深傷を負っていると思ってな、…あの邪狂霊とやらにやられたのか?」
今度は幻洛が心配そうに伊丹に伺った。
「………そう、ですね。なかなか厄介な存在で。」
伊丹は深く話さず、幻洛の言葉を肯定するように答えた。
「でも、僕はこの通り元気なので大丈夫ですよ。ご心配をおかけしてすみません。」
伊丹は幻洛を気遣いながら早急に話を切り上げさせた。
まるで、これ以上探られるのを拒むように。
「…そうか、早く治るといいな…。」
「…。」
伊丹の言葉を鵜呑みにした幻洛は、それ以上追求することはなかった。
先程までの空気とは何かが違う。
伊丹は顔をしかめながら黙り込んでしまった。
「…伊丹?」
「!」
幻洛の問いかけに、伊丹はハッと我に返った。
「すみません、また長居してしまいましたね。」
伊丹はどこか分が悪そうに、作った笑顔を幻洛に向けるとスッと立ち上がった。
サラサラとした柳緑色の髪が、伊丹のなで肩から滑り落ちる。
「…そろそろ失礼しますね。どうぞごゆっくりお休みください。」
「…ああ。」
伊丹は幻洛に微笑むと、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
残された幻洛はそのまま止めることなく、伊丹の背を見送った。
少しばかりの疑念を感じながら。
………
幻洛の部屋を出た伊丹は、自室へ戻るべく屋敷の長い廊下を歩いていた。
「…胸が、苦しい…。」
不穏に高鳴る胸の音をなんとか落ち着かせるように、伊丹は深く深呼吸をした。
ーーー彼に、嘘をついてしまった。
何でも答えたい、そう思っていたのに、何故、あのようなことを言ってしまったのだろうか。
否、いま真実を言ったところで、余計な混乱を生み出すだけだ。
彼は今、心を閉ざしている。
故に、今の彼が誰かの心を読む確率は低い。
それが吉なのか、凶なのかーーー
「…少しでも、平穏な日が長く続けば…。」
渡り廊下から見える空を見上げながら、伊丹は静かに呟いた。
厚い雪雲のかかったこの日の夜空は、月の姿すら見ることができなかった。
………
翌朝。
煌々とした朝日の昇る頃起きた幻洛は、新調された服へと着替え、身なりを整える。
そしていつものように、伊丹、ふゆはと共に、居間で卓袱台を囲み朝食の時間を楽しんだ。
この万華鏡村に来る前は想像もできなかったほど、とても穏やかで幸せな時間だった。
幻洛は屋敷の玄関の戸を開けると、眩い朝日に目を細めた。
片手には薙刀を握りしめ、そのまま振り返る。
「…では、行ってくる。」
見送る二つの妖狐に、幻洛はフッと笑みを向けた。
「行ってらっしゃい、幻洛。」
ふゆはは慣れない笑みを幻洛に向け、控えめに手を降った。
「行ってらっしゃいませ、幻洛さん。…どうかお気をつけて。」
伊丹はどこか思い詰めるように狩衣の裾をぎゅっと握りしめるも、幻洛に心配させないように穏やかな笑みを向けた。
その笑顔に後押しされるように、幻洛は漆黒の服を靡かせ、万華鏡村の中心部へと歩みを進めていった。
この万華鏡村を、村民を、ふゆはを、…そして伊丹を守るために。
幻洛の姿が見えなくなるまで、伊丹とふゆははその背を見送った。
「…さ、僕たちも行きましょうか。」
「そうね。」
伊丹はそう促すと、ふゆはと共に万華鏡神社へと向かった。
今日もまた、新たな日が始まる。
二度と訪れることのない、今日という日を平和に過ごせるように。
この幸せな日が、永遠と続きますように。
そう願いながら。