あれから暫く時が流れたある日。
幻洛は村の巡回任務の途中で、甘味処の縁台に座っていた。
巳の刻ということもあり、万華鏡村はいつものように賑わいを見せていた。
「…。」
一向に、伊丹を呪いから救う糸口が見つからない幻洛は、若干の焦りを感じていた。
「くそ…。」
幻洛は苦渋の表情で呟いた。
何故、伊丹は呪いを背負いながら生まれてきたのか。
一体、何の恨みがあって、呪いに蝕み続けられなければいけないのか。
完全に打ち消す事が出来ずとも、進行を止める事は出来ないのか。
幻洛は知略にも優れている身ではあるが、こんな未知の力など、解明しようにもまるで分からなかった。
「このままで終われるか…。」
かと言って、解決策が見つからないこの状況。
本当に、伊丹はこのまま消滅していく運命しか残っていないのだろうか。
その結末を、自分はただ見ていることしか出来ないのだろうか。
突然、冷たい風が強く吹きつける。
周囲の声が、やけに騒がしく聞こえる。
「何だ…。」
妙な胸騒ぎがする。
今日、伊丹は珍しく外出していると聞いたが。
「伊丹…。」
居ても立っても居られなくなり、幻洛は自らの能力、千里眼で伊丹の居場所を確認した。
幻洛の脳裏に映ったのは、薄暗い林の中を歩く伊丹の姿だった。
まるで、あの時のように。
「!」
幻洛は咄嗟に立ち上がり、彼の元へ急行した。
………
「はい、それでは失礼しますね。」
その日、伊丹は村外れに新設された小さな学童施設へ祈祷に訪れていた。
祈祷を終えた伊丹は、神社へ戻るべく、薄暗い林の中を歩いていた。
「…疲れた…。」
万華鏡神社の神主であり陰陽師でもある者が、神聖な祈祷の後にこの様な有様とは如何なものか。
あまりにも情け無いとはわかっているものの、何故だか今日は非常に疲れている。
早く神社へ戻って、残りの仕事を進めないと…。
「はあ…。」
疲れが取れない。
ため息の回数が増えている。
身体が、重い。
怨霊の呪いが、日に日に身体を蝕んでいる。
”自分”が、支配されていく。
「…ッ、ゲホッ、ゲホッ」
突然、胸元から込み上げてきたものに、伊丹はむせ返る。
咄嗟に口元を覆った手に、何か付着したのを感じる。
吐血、だ。
「…もう、あまり時間がないのかな…。」
特別、伊丹は驚きはしなかった。
こうなることは、だいたい予想がついていた。
自分が自分でなくなる前に、どうか、大切な人をーーー
「!」
ガサッと、背後から物音がした。
怒りと悲しみを交えた唸り声が、林の中に響き渡る。
何か、いる。
この気配は、邪狂霊ではない。
これは怪異ではないが、怪異よりも厄介なーーー
茂みの中から、ギラリと目が光る。
「ガアアッ…!!」
「…!」
邪鬼だ。
「く…!こんなところで…!」
不幸中の幸いか、その邪鬼は大人ではなく少年のようだった。
しかし、両手には鋭利な斧を持っており、危険な状態には変わらなかった。
其の者を狂わせるのは、恨みか、妬みか、悲しみか、絶望か。
邪鬼へ化け、言葉を失った少年は叫び声を上げながら伊丹に攻撃を仕掛けてきた。
邪鬼とは、全ての鬼族が持っている特異体質。
発症する起源はわからないが、怒りや悲しみといった感情の制御が効かなくなると、我を忘れるほど凶暴化し、視界に入った者全てに攻撃を仕掛けてくると言われている。
邪鬼化した者は、たとえ女子供でも並外れな力で襲いかかってくる。
その為、大人の男が対処するにも非常に危険な存在だ。
「ア”アアッ!!」
奇声を上げながら突撃してくる邪鬼の少年に、伊丹は咄嗟に錫杖を召喚して身を守る。
錫杖と斧がぶつかる、鈍い金属音が林に響く。
「ぐぅ、…っ!」
早く、誰か呼ばないと…!
邪鬼は邪狂霊のような怪異とは異なり、生きている者。
無駄な殺生は避けなければならない。
しかし、直接的な力技を不得意とする伊丹にとって、邪鬼化した鬼族は天敵に等しかった。
錫杖と斧がギリギリと噛み合う。
「だめ、だ…!」
強靭な力に押さえつけられ、伊丹は身動きができなかった。
少年が、もう片方の斧を振り上げるのが視界に入った。
幻洛さん、僕はーーー
突然、何かを察したのか、邪鬼の少年は伊丹から身を引いた。
「!!」
伊丹の前に、助けを求めていた者が目に映る。
「伊丹から離れろ。」
その重低音の声には、相当の怒りがこもっていた。
まるで、初めて彼と出会ったあの日のようであった。
「幻ら、…!!」
幻洛は怒りに満ちた表情で、邪鬼の少年へ攻撃を仕掛ける。
「ギェアアアッ!!」
「ッ!」
幻洛と少年は激しく交戦する。
邪鬼の少年は怒号を上げながら片方の斧を幻洛に投げつけるも、幻洛は少年の攻撃を弾き返した。
「は、そうだ、今のうちに応援を…!」
伊丹は護符を使い、状況をナギや裂に知らせる術を繰り出そうとした。
「ぐっ…!!」
「!!」
幻洛の声に、伊丹の動きが止まる。
幻洛の肩から、真っ赤な血がぼたぼたと流れ落ちていた。
「幻洛さん!!」
愛する者が、負傷した。
その事態に、伊丹は救援の術を繰り出すことが出来なかった。
判断力を失った伊丹は、咄嗟に幻洛の元へ走り出す。
「ギアアアッ!!」
「あっ…!」
その対角から、素早い動きで邪鬼の少年が伊丹に襲いかかろうとしてきた。
幻洛の元へたどり着く前に、此方がやられる。
かと言って、もう後戻りはできない。
伊丹の思考が止まる。
「伊丹に手ェ出すなっつってんだろ!!」
「っ…!」
まるで一つの稲妻のようだった。
聞いた事がない幻洛の怒号が竹林に響き渡り、伊丹は思わず身を震わせた。
その怒号に少年も怖気づいたのか、邪鬼としての動きが鈍り始める。
隙を見せた少年に、幻洛は負傷した肩を庇いながら追撃する。
ドンッと鈍い音と共に、少年はそのまま幻洛により地面に押さえ込まれた。
「は、っ…」
息を荒げながら、幻洛はギロリと邪鬼を睨みつける。
コイツは伊丹の命を狙っている。
なら、コイツはここで死ぬのが道理だ。
否、俺の伊丹に手を出そうとした。
死に値する理由はそれだけだ。
「ガ、ア”アアアッ!!イ、や…だッ…!!」
抵抗する少年の叫び声が、微かに元の声に戻ってきていた。
しかし、幻洛はそのまま容赦なく薙刀を振り下ろそうとする。
「幻洛さん!!待って!!」
伊丹の制止する声に、幻洛の動きが止まる。
「殺しては駄目です!!その方は生きている!!」
邪鬼は生き物。
自らを狂わせた現実を受け入れる事が出来れば、元の姿に戻れるのだ。
「はっ…、自分の命より、自分を殺そうとする奴の命が大事か?」
「そ、それは…!」
伊丹は言葉を詰まらせる。
周囲に命の危険をもたらすならば、一刻も早く駆除しなければならない。
それが幻洛、ナギ、裂たちの務めだ。
しかし、邪鬼化した者もまた、好きで殺しをしているわけではない。
ただ生まれたときから”鬼族の血を持っていた”だけで。
「チッ…」
幻洛は思い詰める表情で舌打ちをした。
「命拾いしたな、お前。だが、次にそのザマで俺の伊丹に出会ったら問答無用で首を跳ね飛ばす。ガキだからって許されると思うなよ。」
邪鬼以上に、殺気に満ち溢れる幻洛の唸り声には、どこか悲しみを帯びていた。
「………俺もお前も、過去を変えることなどできない。だが、生きていれば未来はいくらでも変えられる、…それだけは忘れるな。」
ガッと薙刀の石突に後頭部を殴られた邪鬼の少年は、そのまま意識を失った。
荒々しかった林に、静寂が戻る。
「…。」
伊丹はそっと、幻洛に近づいた。
「…すみません、僕は…、」
「終わったことだろ、気にするな、…ッ!」
「!!」
負傷した肩から大量の血が流れ、抉られるような深い痛みに幻洛は言葉を詰まらせた。
「く、そ…ッ!」
「早く、屋敷へ…!」
伊丹は幻洛を支えながら、足早に屋敷へ連れて行った。
幻洛から滴る血が、二人の通った道を赤く染めていった。
………
屋敷へ戻ると、伊丹の帰りを待つふゆはが出迎えた。
「おかえりなさ…、幻洛!?」
伊丹に介抱されながら肩を血で真っ赤に染めた幻洛に、ふゆはは驚愕した。
「一体、何があったの!?」
「まあ…、見ての通り、だな…。」
驚き慌てるふゆはとは対照的に、幻洛は冷静にフッと苦笑いをした。
「伊丹様!!幻洛様!!」
主の帰りを聞きつけ、式神たちが神社の方から飛び出してきた。
「…ったく、この程度で…ッ、騒ぎすぎだ…。」
「動かないでください。…急ぎ手当を!」
幻洛はそのまま式神たちにより自室に連れられていった。
その様子を、ふゆははただ唖然と見ていた。
「伊丹…、一体何が…。」
「邪鬼にやられました。」
「…!」
邪狂霊のような怪異ではないが、それに近い危険な存在。
ふゆははゾッと身震いした。
「…何も、できなかった…。」
「え…?」
「僕が、力不足なばかりに…。」
彼を、こんな目に遭わせてしまった。
伊丹はそう付け加え、苦渋の表情で狩衣の袖をぎゅっと握りしめた。
「伊丹…。」
そっと、ふゆはは伊丹に声を掛ける。
「貴方が負傷したら、幻洛は心にも深い傷を負っていたかもしれないわ。」
「ふゆはさん…。」
ナギが負傷したあの日とは逆のようだ。
まさか、弟子から励ましの言葉をかけられるなど。
伊丹はふゆはの成長を嬉しく思った。
同時に、何も出来なかった自分自身に失望していた。
僕はまだ、こんなにも弱いんだ。
伊丹は現実を重く受け止めながら、ふゆはと共に幻洛の部屋へ足を進めた。
………
「では、我々はこれにて…。」
幻洛の手当てを終えた式神たちは、伊丹に一礼し、そのまま神社へ戻って行った。
伊丹は静かに礼を述べ、ふゆはと共に幻洛の部屋に留まった。
「…幻洛さん、本当にすみませんでした。僕のせいで、こんな事に…。」
「仲間を守るのが俺の仕事だ。特に邪鬼が相手ともなれば、このくらいの傷は覚悟していた。」
自身の布団の上に座りながら、幻洛は何事もなかったかのように笑う。
「…それより、伊丹が無事でなによりだ。」
負傷したのは肩口のみということもあり、いつもの元気そうな幻洛の姿に、伊丹もひとまずホッとした。
しかし、あの出血からすると相当傷は深いはずだ。
当分は彼を安静にさせなければならない。
伊丹はそう思っていた。
二人のやりとりを見ながら、ふゆはは口を開く。
「伊丹、今日はもう神社のことは私に任せて、幻洛を…」
「俺はもう平気だ。…まあ、今日の巡回任務は厳しいが…。伊丹、お前は仕事に戻れ。」
「こ、こんな事があって仕事なんてしている場合じゃないでしょ…!」
幻洛の言葉に、ふゆはは反論する。
命に別状はないものの、大切な仲間がこの有様だ。
何事もなかったかのように仕事など出来るわけがない。
ふゆははそう伝えた。
暫く、伊丹は苦い表情で黙っていた。
「…わかりました、僕は仕事に戻らせていただきます。」
「そんな、伊丹…!」
「僕なら大丈夫ですから。…ふゆはさん、一緒に神社へ戻りましょう。」
決して、ふゆはに神社を任せられないわけではない。
むしろ、彼女は自分が思っている以上に成長している。
今ここで幻洛と残っても、自分は何も出来ることはないのだ。
何も、出来ることなど…。
「幻洛さん、どうかお大事にしてください。それと、ありがとうございました…。」
「…お大事に、幻洛…。」
さ、行きましょう、と伊丹は不服そうなふゆはを連れ、幻洛の部屋を後にしようとする。
「伊丹。」
襖に手を掛けたところで、背後から幻洛に呼び止められる。
「…今夜、時間をもらえるか?」
「え、…ええ…。」
ドクンと、伊丹の中で心臓が高く鳴り響く。
今まで感じたことのない感覚が伊丹の背を襲う。
伊丹は振り返らず、そのままふゆはと部屋を出ていった。
………
「幻洛さん…?」
「ああ、入って構わん。」
静寂に包まれ、月が煌々と輝く子の刻。
伊丹は幻洛の自室へ訪れていた。
部屋の襖を開けると、幻洛は布団の上に座りながら薙刀の手入れをしていた。
治療を受けた肩の包帯を自分で取り替えたのだろう。
開けた浴衣から見える体格のいい肩には、真新しい包帯がきっちりと巻きつけられ、床には医療品が散乱していた。
「お前の呪い、未だに解決の糸口すら見つけることが出来なくてすまない。」
「…そんな事を気にしていたんですか?僕は幻洛さんとこうして過ごせるという事だけで、もう十分救われていますよ。」
伊丹は幻洛の傍らに座り、静かに笑った。
ゴト、と薙刀を置く低い音が部屋に響く。
「伊丹。」
幻洛ははっきりとした口調で名を呼んだ。
「お前が破滅の道を進むならば、俺もお前と破滅の道に進む、と言ったのを覚えているか?」
いつになく、その表情は真剣なものだった。
「俺は、この先の一生を伊丹と共に過ごしたい。これは今までの仲間関係ではない。それ以上の、固い契りで。」
「契り…?」
一体、どういう事だろうか。
伊丹は首を傾げ、黙って幻洛の言葉を待った。
「俺は伊丹の、お前の一生が欲しい。」
「…。」
「俺の、ツガイとなってほしい。」
外で鳴く夜虫の声が、音を無くした部屋に響き渡る。
「………!?」
「今すぐに答えなくて構わない。」
驚きのあまり、伊丹は言葉が出なかった。
ツガイ…?僕が…幻洛さんと…?
伊丹はコホンと咳払いをし、気持ちを落ち着かせる。
「…幻洛さん、僕は男ですよ?そんなこと、普通ではあり得ない…」
「ああ、確かに”普通”ではないな。」
当然のように、幻洛は答える。
「お前が生まれ持った運命が普通ではないのと同じように、この契りも普通ではないのはわかっている。それでも…。」
「…?」
伊丹は首を傾げながら、幻洛の言葉を待った。
幻洛の金眼が、月明かりに反射して光り輝く。
「それでも俺は、お前が欲しい。」
静まり返った伊丹の部屋に、幻洛の低い声が心地よく響く。
「嫌になる程聞いただろうが、俺は覚の血族である故、過去に問題を抱えてきた。」
幻洛の故郷では、覚は蔑まれた種族であり、その血を半分持つ彼もまた冷遇されてきた。
その昔、村の帝である者の思考を手前勝手に読み取り、村の情勢を広める行為をした覚が、蔑まれた種族へ堕落させた原因だという。
本当に愚か者なのは、その覚なのか。
それとも、村の者に言えぬ秘密を持っていた帝なのか。
今となれば、捨てた故郷の昔話に過ぎない。
しかし、過去の風習を根強く持つ村で生まれ育った事により、幻洛はこの万華鏡村に来てからも、本心を閉ざして生きてきたのだ。
「…誰も信じることが出来なくなった俺を、お前が変えてくれたんだ。」
幻洛はフッと笑みを向ける。
「俺にとって伊丹は、唯一の光だ。唯一の、…心の拠り所なんだ。」
「…!」
伊丹は息を詰まらせた。
唯一の、光。
伊丹にとっては、幻洛が光のような存在であった。
その者から、自分が光など…。
伊丹はぎゅっと自身の浴衣の裾を掴み、不安そうに問う。
「幻洛さん、貴方は僕よりも明るい未来を過ごせるはずです。今ならまだ、貴方は引き返せます。…いつどんな悲劇が起こるかわからない僕と、この先の一生も過ごしたいなど…、」
「言っただろ、お前が破滅の道を進むならば、俺もお前と破滅の道を進む、と。」
先日の樹海での言葉を、幻洛は再び伝える。
「伊丹のいない未来を歩む方が、俺には悲劇でしかない。それに…、」
幻洛は真剣な面持ちで伊丹の頬にソッと片手を添えた。
柔らかくもどこか冷たい感覚が、幻洛の掌に伝わる。
「お前を俺以外のヤツに奪われたくない。一生の伴侶として、伊丹の全てが欲しい。」
もう、独りで呪いと向き合わなくてもいいように。
伊丹の頬に熱を感じた。
何か思いつめたかのように、伊丹は黙りながらも少し困惑した表情で目を伏せる。
フッと、伊丹の口から溢れたかすかな笑みに、長くも短い沈黙が破られた。
伊丹は瞼を開き、上目に幻洛を見つめ返す。
「…こんな僕と一生を過ごしたいなど、本当に貴方は変わった方ですね…。」
「お互い様、だろ?」
「フフッ…。」
頬に添えられた幻洛の片手に優しく手を重ね、伊丹も笑みを浮かべた。
「…どうなっても知りませんよ?」
「元からそのつもりだ。伊丹となら、俺はどんな最期を迎えても構わない。」
「…。」
彼は本当に一途だ。
これほどまで純粋に愛してくれる者がこの世界に居るなど、想像すらしていなかった。
幻洛の求婚の答えなど、とうに決まっている。
むしろこの瞬間を、心の何処かで待ち望んでいたような気がした。
「幻洛さん、貴方の想い、受け入れさせて下さい。」
伊丹はふわりと笑顔を向ける。
同時に、一生の行方を決める言葉を伝えるべく、伊丹はごくりとつばを飲み込む。
「僕にも、貴方の一生を下さい。」
伊丹は真剣な面持ちで幻洛と目を合わせた。
あれ程まで怯えていた彼の金眼が、今はとても愛おしかった。
このような想いで彼と目を合わせるなど、思いもしなかった事だ。
「俺の一生などいくらでもくれてやる。…伊丹、愛している。」
「僕も、幻洛さんが僕を選んでくれて嬉しいです。…貴方を心から愛しています。」
いつもなら恥ずかしくて言えない言葉も、伊丹は隠さず素直に幻洛へ伝える。
「…ただ、僕を大切にするあまり、頑張り過ぎないで下さいね?幻洛さんが無事でいることが、僕の幸せでもありますから…。」
伊丹は少し曇った表情をしながら、昼間、邪鬼により負傷した幻洛の肩に視線を向けた。
治療により巻かれたガッチリとした肩の包帯の上から、そっと撫でるように手を触れる。
「ああ、これくらいの傷はいつもの事だ。すぐに治る。」
「そうでしょうけれど、貴方はナギのように不死身ではないんですから…。」
「わかっている。…予想以上に、伊丹に好かれて嬉しいな…。」
「…調子いいんですから。」
幻洛の幸せそうな顔に、伊丹の心も幸福感に満たされた。
伊丹はふと、真剣な面持ちで話を続ける。
「…幻洛さん、僕は以前、貴方の過去の苦しみを蒸し返し、その心を再び深く抉ってしまった事を、今でもとても後悔しています。」
身体の傷は、時が経てば自然と癒える。
しかし、心の傷は必ずしも時が解決してくれるとは限らない。
些細なことで再び抉れ、延々と、鮮明に、自らの記憶に付きまとい、心を蝕んでいく。
まるで一つの呪いのように。
「こんな事を言うのは変かもしれませんが、僕も、貴方を守らせてください。」
『いつも貴方に守られているばかりの私は嫌なの。』
…あの時、結界の術を学びたがっていたふゆはさんは、こういう心境だったのだろうか。
「この先、心を抉られるような嫌な事が無いとは言い切れません。ただ、これからは独りで抱え込まないで、ちゃんと僕にも打ち明けてほしいんです。」
「伊丹…。」
「言葉で伝える事すら苦に思う事もあるかもしれません。でも、幻洛さんが僕を呪いから救いたいように、僕もまた、幻洛さんの心の支えでありたいんです。…これだけは、覚えておいてもらいたいんです。」
何も言わなくてもいい。
ただ、僕だけが幻洛さんの本当の心を支えられるようになりたい。
たとえ力で守れなくても、心で彼を守りたい。
…と、これでは少しばかり強い独占欲のようだと伊丹はハッとする。
「…あ、その、別に幻洛さんを独占したいとか変な意味ではないので、履き違えないよう…、」
「なんだそれは。…フッ、素直に自分のモノになれと言えばいいだろ。」
「…。」
伊丹はほんのり頬を赤く染め、気まずいように目を逸らし黙ってしまった。
そんな伊丹を、幻洛は愛おしそうに口の端を緩めながら見つめていた。
「…ありがとう、伊丹。俺は伊丹に救われてばかりだな…。」
幻洛はソッと伊丹の頬に手を添える。
「それは僕だって同じです。…本当に、ありがとうございます、幻洛さん…。」
頬に添えられた幻洛の手の温もりを感じるように、伊丹はするりと擦り寄った。
そのまま引き寄せられるように、互いに唇を重ね合った。
もう、独りで怯えなくていい。
何も、恐れなくていい。
たとえ最悪の結末を迎えても、最愛の者が傍に居てくれるなら。
これ以上ないほど幸せだ。