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其ノ陸、想

あれから一夜明けた。

いつもと同じ方角から、同じ陽が昇っていた。


今日も、一日が始まる。


その日、ふゆはは自分の師、伊丹を探していた。

朝から伊丹の姿を見ていなかったのだ。


「伊丹?」

屋敷には、いない。

昨日の不可解な件もある、もしかしたら、あれからずっと神社の方にいるのかもしれない。

ふゆはは足早に、万華鏡神社へ向かった。


昨日、伊丹と話しをした、あの仕事部屋。

ふゆははそっと、襖を開けた。

その襖は、昨日とは別のもので作られたかのように、軽かった。


「…伊、丹…?」

そこは本当に、彼の仕事部屋だったのだろうか。

書類も、筆や硯も、何もない。

もぬけの殻だった。

「え…?」

ふと、ふゆはは足元に触れた何かに目を落とす。


紙人形に成り果てた、伊丹の式神だった。


サッと、血の気が引いた。

「嫌…、嘘…!」

言葉が、出てこない。

何も、聞こえない。


伊丹が、いない。


ふゆはは我を忘れ、屋敷に向かって走っていった。

苦しい、でも、今は立ち止まることすら惜しかった。


屋敷にたどり着き、ふゆははひたすら廊下を走った。

そこに、銀色の髪の者の姿があった。

自身と恋仲の存在、ナギだ。

「…ふゆは?」

ナギは切羽詰まった顔で走ってくるふゆはに、少しばかり驚いた表情を見せた。

「ナギ…ッ!どうしよう、伊丹が、いない…!」

「…!」

その言葉に、ナギは怪異に出くわした時のように目を見開いた。

ナギはふゆはと共に、急ぎ居間に向かった。


「おい、伊丹を見なかったか。」

「どこにもいないの…!」

ナギは泣きそうなふゆはの肩を支えながら、はっきりとした口調で発した。

「!!」

居間には劔咲、裂、そして幻洛の姿があった。

突然の報告に、それまでの空気が凍りついた。


「どうしよう、劔咲…!」

「落ち着こう、ふゆはちゃん。そう遠くは行っていないはずだ。」

半ば錯乱状態のふゆはを、劔咲は優しく宥め、ふゆはの震える肩を抱いた。


「幻洛、伊丹の居場所はわかるか。」

ナギは真剣な面持ちで幻洛に依頼した。


幻洛は目を閉じながら、集中し、伊丹の気配を探った。

彼の能力、千里眼があれば、伊丹の居場所もすぐにわかるはずだ。

しかし…


「チッ…あの野郎…!」

伊丹の気配を全く感じられない。


己の気配を消す術か。


一切の手がかりのつかめず、自らの能力すら跳ね除けられた幻洛は、焦りと苛立ちにより舌打ちをした。

何か、別の方法は無いのか。

少しでも、伊丹の手がかりをつかめる、何かは…。


「!」

ふと、幻洛は自分の懐にあるものが目に映った。


伊丹が幻洛たちに持たせている、護符の札。

それは常に伊丹の力を通して繋がっているものだ。


「これだ…!」

これさえあれば、まだ、可能性はある。

幻洛はその護符を、一つの希望の光のように強く握った。


「昨日のこともある、急ぎ向かおう。」

僅かな手がかりを見つけた幻洛に、急行しようと裂は促す。


「…いや、あいつのところには、俺一人で行く。」

幻洛は重く、揺るぎない志を裂とナギに向けた。

「俺は…、伊丹を止めると決めたんだ。あいつを、絶望のまま終わらせてたまるか。」

裂とナギは、幻洛の信念に顔を見合わせた。

そして、それを了承したかのように、お互い頷いた。


「…必ず、戻ってこい。」

真剣な面持ちで、ナギは幻洛の傍らに立った。


「妙な幻術を使われないように気をつけろよ。」

絶対に気を緩めるなと忠告の言葉を述べながら、裂は幻洛の傍らに立った。


「ああ、必ず、伊丹を、連れて帰る。」

幻洛は言葉を噛みしめるように伝えた。


二人共、後は任せたぞ。

そう言葉を残しながら、幻洛は伊丹の護符を頼りに、渾身の力で地を蹴り、その場から姿を消した。


必ず、伊丹を連れて帰る。


どんな手段を使ってでも、伊丹という存在そのものを、連れ戻す。


どれだけ遠く、暗く、冷たいところに居ても、必ずその手を掴んで、闇から連れ出してやる。


この身が、この心が、どれだけ傷だらけになろうが関係ない。


俺は、あの時…、伊丹と初めて出会った時、


覚の血族である自分を否定しない彼の純粋な笑顔を見た時から、


思慕の情を抱いていたんだ。


………


万華鏡村の裏手の山奥にある、少し遠い、暗くて冷たい樹海。

そこは四六時中、怪異が出現しやすいと言われる場所だった。


「…やっと、ここまでこれた…。」

伊丹は取り憑かれるようにその場所にいた。

そして何もためらうこと無く、引き寄せられるように樹海へ足を踏み入れていった。


午の刻。

陽の光が一番高く昇る時刻だというのに、まるで別の世界かのように、その樹海は暗かった。

明かりが差し込む樹海の入り口から奥の暗闇に向かって、誘うように冷たい追い風が吹き付ける。

伊丹はゆっくりと、風に追われながら、じわりじわりと冷たくなる奥へ足を進めていた。


ぞわ…、と、物の怪の気配がした。


「…、いた。」

やっと会えたと言わんばかりに、伊丹は落ち着いていた。


邪狂霊だ。


余程、残酷な最期を迎えたのだろう。

その目は糸のようなもので縫い止められ、閉じることを許されず、充血していた。

そして、全身には太くて大きな釘のようなものが複数突き刺さっていた。

更に、強い怨念から異形となり、口元だったところは巨大な昆虫の顎のような形になり、脚は蜘蛛のように多足となり変形していた。


邪狂霊…、そういえば、ふゆはさんと結界の術の鍛錬で、式神として繰り出していた気がする。


でももう、どうでもいいんだ。

何の感情も浮かばない。


伊丹は両手を広げ、邪狂霊を誘った。

途端に、邪狂霊は伊丹に向かって走り出した。


「ぐ、あっ…!」

伊丹は無抵抗のまま、邪狂霊に押し倒される。

冷たい邪狂霊の手が、伊丹の細い首を押さえつけた。


怒りにも似た強い力に、伊丹の首が軋む。


呼吸が、遮られる。

意識が、途切れ始める。


目の前が、暗闇に引きずり込まれる。


「っ…、は、ぁ、大丈夫、大丈夫、だから…。」

怖がらないで。

何もしないから。

もう、何も出来ないから。


否、何モ出来るはズもナい。


「終ワらセ、ろ、」

自分が自分でなくなるならば、いっその事、そうなる前にーーー




「伊丹ッ!!」




遠くの方で、誰かが、何かを叫ぶ声が聞こえた。


いた、み…?

僕の…、名前…?


伊丹に覆いかぶさり、その首を押さえつける邪狂霊の腕が、鋭い薙刀により肩ごと斬り落とされる。

たまらず邪狂霊は伊丹から離れ、その場で悲鳴を上げながらのたうち回った。


紺色の髪を一つに結びあげた、背の高い、黒い服を着た者。


幻…洛…、さん…?


首の圧力が解放され、伊丹の意識が現実へと戻される。

「…嘘、だ…、何故…」

伊丹は身体を起こしながら、今この状況を受け入れられず、顔を手で覆った。


「失せろ!!」

幻洛は追い打ちをかけるように、怯んだ邪狂霊に容赦なく薙刀を突き立てる。

その荒々しい幻洛は、今まで伊丹が見たこともないものだった。


あの幻洛が、感情を露わに、本気で怒っていた。


身体に刃が突き刺さり、叫び、のたうち回っていた邪狂霊の動きが止まった。

途端に、硝子が壊れるかのように異形の邪狂霊は砕け、跡形もなく消えていった。


「何故、何故、いつも、…いつも貴サ…ま、…っぐ、ぅ…幻洛、さん、は…っ、わ、…僕の邪魔ばかり…!!」

震える伊丹の声が聞こえ、幻洛は振り返る。

いつもと異なる口調が紛れている伊丹に、幻洛は眉をひそめた。




伊丹の中に、誰かがいる。




「伊丹…。」

「僕に…、関わるなと言ったはずだ…!!」

伊丹は声を荒げながら立ち上がり、錫杖を召喚し、それを構えた。

無数の呪符が、伊丹の周囲に現れる。


「チッ…!」

ここまできて、妙な術を使われたら厄介だ。

幻洛は舌打ちをしながら、瞬く間に伊丹との距離を詰める。

自分に攻撃を仕掛けようとする伊丹に、幻洛は薙刀の石突を振り上げた。


「あっ…!!」

ガッと、鈍い音を上げながら、伊丹の錫杖が宙に舞う。

錫杖が弾かれ、その強い力で転倒しかける伊丹の背に、幻洛は咄嗟に自身の腕を回す。


幻洛は膝を付きながらも、なんとか伊丹がそのまま倒れるのを阻止した。

カランカラン、と、宙に舞っていた錫杖が地に打ち付けられ、高い金属音を鳴らす。


厚い狩衣を着ているせいか、その身体から生命の暖かさを感じる事が出来なかった。

そして、本当に同じ男なのだろうか、伊丹の身体はとても軽かった。


「伊丹…!」

幻洛は伊丹を見下ろしながら、名を呼んだ。

伊丹の左目に、幻洛の姿がしっかりと映り込んだ。


伊丹から、見えない何かがスッと離れたように感じた。


「嫌だ、やめて、ください…!僕は、僕は…!」

「…伊丹…。」

言葉ではまだ抵抗するも、力任せに暴れることはなかった。

力で幻洛に勝てないことなど、そんなことは伊丹もわかりきっていたのだ。


「俺はもう、お前を救うことは出来ないのか?」

「…!」

幻洛は悲しそうに、伊丹の顔を見ていた。

そんな幻洛の表情に、伊丹も悲痛の表情を浮かべた。

「…全部、全部手遅れなんです…!初めから、この呪いはっ…!」

伊丹は言葉を詰まらせた。


どうしたらこの呪いから逃れられるのか、ずっと必死に考えてきた。

それでも、考えてきた対策は、全て無力で終わっていった。

全て、無駄な努力だったのだ。


「手遅れ、というのは、誰かから聞いたのか?」

「え…、」

突然の問いに、伊丹は間の抜けた声を出す。

「救えない、というのは、誰かが決めたことなのか?」

「…。」

そんなことを、は…。

答えようのない問いに、伊丹はそのまま黙ってしまった。


「助かる可能性は無いかもしれないが、助からない可能性も無いとは言い切れるのか?」

「幻洛さん…。」

この者は僕の呪いに、本気で立ち向かおうとしている…?


あれ程まで酷く突き放したのに。

軽蔑され、全ての縁を切られる、そう覚悟していたのに。

どうして、何もなかったかのように笑いかけてくるのだろう。


どんな暗闇の奥に逃げても、光と共に、幻洛さんが僕を闇から引きずり出そうとしてくる。


これも仲間ゆえ、だからなのだろうか…?


「でも…、ダメです…、幻洛さんは、本当に…。」

「俺が嫌いか?まあ、あれだけ無理に迫られれば、そうなるだろうな。」

ただ、そうでもしないと、お前は誰にも打ち明けずに、独りで呪いを抱えていたんだろう?


幻洛は支える伊丹を見下ろしながら自虐し、笑いかけた。


「…違うんです…。」

笑う幻洛とは対照に、伊丹は悲しそうだった。


「…幻洛さんは優しすぎる、だから、一番遠くに居てほしかった…。」

伊丹は、自身を支える幻洛の服の裾を優しく掴んだ。

「一番優しい人ほど、僕の呪いを知ってほしくなかったんです…。僕に、関わってほしくなかったんです…。」

深海の色をした伊丹の左目が、涙を含み、樹海の微かな光を反射していた。


「幻洛さんのことが、大切だから…。貴方を、こんなことで巻き込みたくなかった…。」

耐えきれず、その左目からひとしずくの光が零れ落ち、闇へと消えていった。


「…。」

思い詰めたような表情で、幻洛は伊丹を見ていた。

「…俺も、伊丹が大切だ。」

幻洛は、支える伊丹の細い肩を、壊れ物を扱うように、優しく握った。


「ただ、それは仲間という理由ではない。」

「…?」

伊丹は理解できないような顔で幻洛を見上げていた。


「伊丹、お前は俺のように、他者の気持ちを読み取ることなどできないだろう。」

漸く、伊丹は抵抗なく幻洛と目を合わせるようになった。

それでも、伊丹は幻洛の気持ちを、幻洛のように読み取ることはできない。


「だから、お前の気持ちを読み取った分だけ、俺は言葉で、俺の本当の気持ちをお前に伝える。」


少しばかり、幻洛の鼓動が早まった。

幻洛はゆっくりと息を吸い、伊丹の左目と、その包帯で隠された右目をも見るように、はっきりと、言葉を発した。




「俺は、伊丹が好きだ。」




幻洛は真っ直ぐ、その金眼を伊丹に向けた。

向けられたその深海の色の右目に、一つの光が灯る。


伊丹の中で、迫り来る何かが、その眼と言葉に強くたじろいだ気がした。


「…あの、それはどういう…、」

「言っただろ、仲間という理由ではないと。」

この気持ちを言葉にするというのは容易ではないようだ。

成る程、と独り言を言いながら幻洛は苦笑いした。


「…これでもまだ、伝わらないか?」

幻洛は伊丹の手を掴んだ。

自分とは異なる、その細く綺麗な手を、幻洛は自身の胸にあてがった。

「っ…!」

その胸の鼓動に、伊丹の鼓動も比例するかのように速まった。


幻洛はゆっくりと口を開く。

「…俺と初めて出会った日の事、覚えているか…?」

優しい重低音の声が、伊丹の鼓膜を振動させる。


彼と初めて出会った日。

邪狂霊に襲われていた自分を、彼が救ってくれたのだ。


「…ええ、勿論。」

忘れるわけがない。

忘れられるはずがない。

大切な、彼との記憶。


「あの時、お前は俺の能力を認めてくれた。」

互いの種族について話し合った事。

覚という、この村では珍しい血を引く彼の事。

純粋に、彼の能力を称賛した事。


掴んだままの伊丹の細く綺麗な手を、幻洛の雄々しい手が優しく握りしめる。


「本当に嬉しかった。…初めてだった。覚の血族である俺を否定せず、俺という存在を認めてくれた者と出会ったのは。」

「…。」

先ほどまでの雄々しい顔とは一転、無邪気な笑みを向ける幻洛に、伊丹の心が静かに高鳴った。


自分でも何故、あの時幻洛を引き止め、屋敷へ招いたのか伊丹もわからなかった。

ただ本能的に、彼を行かせてはならない、そう思い、何処か必死だった。


まるで唯一の希望を求めるように。


「その時から、お前に特別な感情を抱いていた。当時は俺もわからなかったが、今ならはっきり言える。」

伊丹の掌にあてがわれた幻洛の胸の鼓動が、ドクンドクンと一際速まる。


「伊丹、お前が愛おしくて仕方がないんだ。」


心地よい重低音の声が、幻洛の口から発せられる。

その告白が”自分”に向けられたものだと思うと、伊丹は胸がキュッと締め付けられた。


フッと、幻洛から溜息が溢れる。

「誰かを本心から好くということが、これ程まで自分を変えられるとは思いもしなかったな…。」

独り言のように、幻洛は呟いた。

その表情は、少し恥ずかしそうだった。


「…。」

伊丹は何も言えず、ただ呆気を取られていた。


ごくり、と幻洛の喉が動く。

「…この想いが迷惑ならばすまない。お前を手に入れる事は諦める。」

幻洛はスッと目を閉じる。

覚悟するかのように一呼吸おき、再び黄金に輝く金眼を伊丹へ向けた。

「だが俺は、俺の本心を唯一打ち解けることができた大切な者を守りたい。…これだけは、許してほしい。」

その言葉に、伊丹の視界が再び滲む。

先程とは違った意味で、涙が浮かび上がる。


迷惑だなんて、思うはずがない。

許しを求める必要など、あるはずがない。

彼に迷惑をかけたのは、僕自身なのだから。

彼に許しを求めるのは、僕自身なのだから。


「…っ、幻洛、さん…」

感情が高ぶり、伊丹の言葉が震える。

それでも、伝えなければならない。

この想いを、自分の言葉で伝えなければならない。


掴まれた手はそのままに、伊丹は支えられていた身体を持ち上げ、幻洛の前に座り込む。

自分を落ち着かせるように、伊丹は涙を堪えながら息を吐いた。

「っ…迷惑だなんて、思っていません…。許しを求める必要なんて、ありません…。」

伊丹は狐耳を下げ、頬を紅潮させながら潤んだ深海色の瞳を上目に幻洛へ向ける。

少しだけ、何かに動揺した幻洛は耐えるように生唾を飲んだ。


「…僕はずっと前から、貴方を求めていたんです。本気で僕を助けてくれる方を求めていたんです…。」

「…!」

「でも、僕は生まれつき呪いを背負った運命…。こんな私情を求めても、ただの一人よがりだ、と…。結局は自分で解決しなければならないと思い込んでいました。」

辛そうな表情をしながらも、伊丹は幻洛に笑みを向ける。


「…あの日、貴方に出会えて本当に良かった…。」


伊丹はそのまま、幻洛の肩に額を預ける。

ガタイの良い幻洛の肩が、不思議ととても心地よかった。

「僕も、幻洛さんが好きです。…僕を、貴方の傍らに置いてください。」

「伊丹…。」

幻洛は伊丹の背に腕を回す。

狩衣の上からでもわかる程、伊丹の身体は脆く壊れそうだった。


誰にも邪魔はさせない。

必ず呪いから解放してやる。

伊丹が”伊丹”でいられるように、俺が必ず守るからな。


幻洛は心の中で誓った。


ふと、伊丹は伏せていた顔を上げる。

「…この先、僕は破滅の道へ進むかもしれません。もし、そうなったら…」

伊丹は言葉を詰まらせる。

覚悟はしている。

それでも、彼を巻き込むなど…。


「お前が破滅の道を進むならば、俺もお前と破滅の道を進む。」

幻洛は伊丹を見下ろしながら伝えた。

「それが、俺の本望だ。」

はっきりとした口調に、伊丹は驚き、口を開こうとした。


「だが、俺はその結末を認めたわけではない。」

幻洛はより一層力強く言い放った。

その眼は伊丹を見ていたが、伊丹以外の何かを見ているようであった。


フッと、幻洛はいつもの笑みを伊丹に向けた。

「こうして話すことも出来るんだ。お前の運命を変えるまで、まだ時間はあるだろう?」

「そうかもしれませんが…。」

座り込んだままの伊丹を引き寄せながら、幻洛は立ち上がった。


「帰るぞ、伊丹。俺はお前を、絶対に諦めないからな。」

「幻洛さん…。」

はっきりとした物言いに、伊丹はただ唖然とするしかなかった。

幻洛は伊丹の手を引きながら、来た道を戻り始めた。


近くて遠い、樹海の出入り口付近は、夕陽の光で銅色に輝いていた。

樹海を出ると、そこは優しく暖かな風が吹いていた。


「伊丹。」

「あっ…。」

樹海を出て、突然幻洛が伊丹の腰を抱き寄せた。

幻洛の吐息が、伊丹の首元にかかる。

伊丹は思わず身じろいだ。

しかし何故だろうか、不思議と嫌な気はしなかった。

「あの、幻洛さん…?」

「…ああ、ちゃんと”伊丹”だな。」

安堵したかのように、幻洛はフッと笑った。


「妙な幻術を使われないように気をつけろと、裂に言われていたからな。」

「…。」

こんなに鼓動が早かったら、術を使うことなど出来るはずがない…。

完全に、伊丹は幻洛に捕らわれているのだから。


遠くの方で、月が上がり始めていた。

万華鏡村まで、まだ少しかかりそうだ。

少しの沈黙が続いたり、他愛ない話をしながらも、二人は万華鏡村へ足を進めていた。


「幻洛さん…。」

ふと、伊丹は幻洛を呼んだ。

「屋敷についたら、ふゆはさんたちには、呪いの件は勿論、これまでのことも言わないで下さい。」

幻洛は歩を止め、伊丹の方へ振り向いた。


「これまでのこともか?」

伊丹がそう言うならば、無論、口を閉ざしておく。

幻洛はそう約束した。


「…その、恥ずかしいので…。」

ふゆはさんの師で親代わりでもある者が、あんなことがあったなど万が一皆に知られたら…。

そう小さく呟く伊丹は、狐耳を下げ、目を伏せながら困ったような顔で赤面していた。

初めて見る、赤面しながら恥じる伊丹の姿に、幻洛は耐えきれず自身の口元を手で覆い、その顔から目を背けた。


たまらなく、伊丹が可愛かった。


今まで、誰かに”可愛い”という感情を向けたことなどなかった。

初めて経験した、突然の感情の高ぶりに、幻洛自身も戸惑っていた。


今の伊丹を、他の奴らに見られてたまるか。


幻洛の中で、少しばかりの独占欲が生まれた。


「それと、もう手は…。」

「わかっている。屋敷についたら、離してやる。」

未だに掴まれたままの片手に、伊丹は困りながら溜息をつく。

幻洛の逞しい手に掴まれる自身の頼りない手を、伊丹はぼんやりと眺めていた。


………


屋敷の玄関を開けると、そこはいつもよりも寂しさを増した日常だった。

「…!伊丹っ…!」

玄関の開く音を聞きつけ、ふゆはは居間から飛び出してきた。

自分の師が目に入ると、泣きそうな顔で玄関へ走ってきた。


本当に戻って来るだなんて、伊丹自身も思っていなかった。

たった一日居なかっただけなのに、とても懐かしく思えた。


「…ただいま、ふゆはさん。」

「どこ行ってたのっ…!!」

伊丹はその場で正座をすると、その上にふゆはが雪崩れ込んできた。

「…本当に、ごめんなさい。」

伊丹はふゆはを抱きしめながら、優しく、小さく呟いた。


「おかえり、伊丹。」

ふゆはに続き、劔咲がゆっくり歩いてきた。

やれやれ、といった表情で、劔咲は苦笑いをしていた。

「劔咲さんも…、心配させて、すみませんでした…。」

劔咲を見上げながら、伊丹も貰い笑いをした。


後に続き、裂とナギが歩いてきた。

「おつかれ、幻洛。よく戻ってきてくれた。」

安堵したように、裂は幻洛の肩を叩いた。

「ああ、少々手こずらせてくれたがな、あのトンデモ師匠は。」

幻洛は笑いながら、ふゆはを優しく抱擁し、劔咲と話す伊丹を見ていた。


「…おつかれ。」

ナギは静かに労いの言葉を述べた。

屋敷を飛び出す前の真面目な面持ちはどこへやら、いつもと通り、無表情だった。

「相変わらず仏頂面な奴だな。ナギ。」

まあ、それこそナギらしくていいんだがな。

と、幻洛は無表情なナギとは正反対に笑う。

「…どこからどう見ても笑っているだろ。」

笑えてない、全く笑えてない。

そんなナギに、幻洛と裂は益々笑った。


「二人とも無事帰ってきてくれたことだ、そろそろ晩飯にしようか。」

劔咲は言い伝えると、各々は待ってましたと言わんばかりに居間へ足を運ばせた。

ふゆはも立ち上がり、一緒に行きましょう、と、伊丹の手を引きながら、居間へと足を進めた。


まだ、全て解決したわけではない。


解決策が見つかったわけでもない。


それでも、今はただ、この幸福な時間を大切にしよう。

伊丹はそう思いながら、ふゆはの小さくも暖かな手に引かれ、夕食の並ぶ居間に入っていった。


万華鏡神社を、屋敷を、黄金に光り輝く満月が煌々と照らしていた。


その月の隣には、一際強く、一つの星が爛々と輝いていた。

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