「…おはよう、劔咲。」
「ああ、ふゆはちゃん、おはよう。」
あれから一夜明け、ふゆははいつも通り朝食を食べる為、居間へ入った。
「昨日はちゃんと眠れたか?」
朝食を準備している劔咲が、スッと振り返った。
「え、ええ…大丈夫よ…。」
「そうか。なら良かった。…ナギの件は結構衝撃的だったろうから、私も心配していたんだ。」
そう言いながら、劔咲は慣れた手つきでふゆはの分の朝食を卓袱台に並べた。
「とはいえ、異形の邪狂霊の情報も随分と久しぶりだな。また妙なことが起こらなければ良いが…。」
劔咲は神妙な面持ちで呟いた。
その台詞は、昨晩の伊丹と同じようなものだった。
そうだ、伊丹はーーー
「何だ、朝から随分と辛気臭い空気だな。」
二人の背後から、突然低い声がした。
紺色の長い髪を一つに結び上げた長身の男。
万華鏡神社の警護隊の一人、幻洛だった。
「ああ、幻洛、おはよう。」
「幻洛、おはよう。…昨日は大変だったんだから…。」
劔咲の挨拶に続いたふゆはは、昨日の騒動を思い出しながら溜め息をついた。
「まあ、異形の邪狂霊に遭遇したならば、無理もないだろうな。」
幻洛はそうつぶやきながら、ふゆはと同じ卓袱台に座り込んだ。
「…そういえば、ふゆはちゃん、伊丹はどうした?今日は珍しく朝食を食べに来ていないのだが。」
幻洛の分の朝食を運んできた劔咲は、思い出したかのようにふゆはに訪ねた。
その日、伊丹は朝食を食べるどころか、居間にすら来ていなかったのだ。
途端に、スッと空気が変わり始める。
「え?…あ、そういえば、ちょっと忙しいとは言っていたけれど…、」
ふゆはは今朝、伊丹に会っていた。
ただ、今日は本当に忙しそうで、大した話はしなかった。
それでも、伊丹はいつもの柔らかな笑顔で話していたため、ふゆはは特に気に留めていなかった。
「…。」
幻洛は、ふゆはの話を真剣な面持ちで聞いていた。
「朝ごはんも食べてなかったなんて…。伊丹、大丈夫かしら…。」
万華鏡神社の方角を眺めながら、ふゆはは心配そうな顔で呟いた。
「…ふゆは、伊丹が忙しいと言っていたのはいつだ?」
少し険しい表情で、幻洛はふゆはに追求した。
「えっと、ついさっきの事だけれど。」
「そうか。」
幻洛は立ち上がると、ワシャワシャと、大きな手でふゆはの藤色の頭を撫でる。
「幻洛…?」
ふゆはは疑問の表情を向ける。
それに対し、幻洛はフッといつもの笑みを浮かべる。
しかし、その目は一切笑っていなかった。
幻洛は黒い服を靡かせながら、そのまま足早に居間から出ていってしまった。
その横顔は、先程までふゆはをからかっていたとは思えない程、真剣な表情の幻洛だった。
「…全く、朝飯くらいしっかり食べろといつも言っているというのに…。」
突如姿を消した幻洛に、劔咲はやれやれと溜め息をついた。
「…。」
伊丹も、幻洛も、一体どうしたのだろうか。
残されたふゆはは、ただ呆気にとられていた。
………
万華鏡神社と屋敷を結ぶ、一般の者は入ることが出来ない小さな林道。
その境界した塀に、伊丹は背を預け、項垂れていた。
陽は厚い雲に遮られ、まだ朝だというのに薄暗かった。
周囲の竹林が、時より強い風で唸るようにざわめく。
「っ…はぁ…、」
苦しそうに、伊丹は息を吐いた。
「…重、い…。」
自身の腕を掴みながら、伊丹は迫りくる何かに耐えていた。
生憎の天候故か、今日は小鳥のさえずりさえも聞こえない。
ただ、風でざわつく竹林の葉が、現実の思考を遮るように煩く聞こえた。
もう、そこは既に現実ではないかのように。
「伊丹。」
ふと、聞き覚えのある低い声に、伊丹は現実に引きずり戻される。
「幻洛、さん…?」
ああ、またか、また貴方は、僕の邪魔をするのか。
あの日の夜、一瞬だけ目を合わせてしまっただけで、こんなに付きまとわれるようになるなんて。
嫌いだ。
嫌いだ。
貴方、なんて…。
「…こんな時間に、心外ですね。まだ村の巡回に行かないんですか?」
平然と、皮肉を交える。
思わず悪態をつきそうになりながら、以前のことも無かったかのように、伊丹は笑顔で応えた。
その笑顔は誰にも向けられていなかった。
「ふゆはが心配していた。」
伊丹の問いを無視するかのように、幻洛は言葉を発する。
ふゆは、と聞き、伊丹は一瞬言葉が詰まる。
「…心配?何がです?いつも通り、僕は仕事に追われて忙しいだけですが?」
伊丹はただひたすら、冷淡に答える。
偽る、という下衆な行為をする自分自身に、伊丹は内心苛ついていた。
「シラを切るのもいい加減にしろ。」
幻洛の声が、より一層低くなる。
じり…、と着実に、ゆっくりと伊丹に歩み寄った。
「お前、その呪いをどうするつもりだ。」
あの日の夜、幻洛が言いかけた言葉だ。
やはり、既に読まれていたのかと、伊丹は心の中で舌打ちをした。
「…呪い?幻洛さん、貴方は何か良からぬ怪異にでも、」
「覚(サトリ)相手にいい度胸だな。」
低く鋭い幻洛の声が、シラを切り続ける伊丹の言葉を断ち切った。
幻洛は距離を詰め、伊丹の顔の横に片手をつく。
伊丹の背後にある塀が、鈍い音を上げた。
「…幻洛さんには関係の無い事ですから。そう無駄につきまとわれると、こちらも迷惑なんですよ。」
追い込まれた伊丹は、今までのことを肯定も否定もしなかった。
ただ、その言葉もまた偽りであった。
「なら、俺の眼を見て言え。」
「っ…!」
幻洛の言葉に、伊丹は思わず息を呑んだ。
呪いの件が認知されている時点で、もう逃げることなど出来なかった。
だけれども、それでも、その金眼を見ることが伊丹には出来なかった。
一向に顔を背ける伊丹に、幻洛はこちらを向かせようと、ついた手とは逆の手を伸ばした。
「っ!触るな!!」
咄嗟に、伊丹は声を荒げながら手を払い除け、幻洛の額に自身の指を突き立てた。
「!?」
途端に、幻洛の視界が傾く。
プツリと世界が遮られ、思考が暗闇へと引きずり込まれるーーー
『その隈取り…、お前、覚の血が混じってるのか?ハハッ、そいつは不運だな。…知らないのか?昔から、覚の血を持つものは…』
聲が、聞こえる。
あの時の、聲が。
『アハハ!覚なんて下衆な血が流れてるヤツに好意を持つとでも思ってたの?一回アタシを抱けたからって、勘違いしないでよね。…気持ち悪すぎて反吐が出るわ。』
気持ち悪い。
気持ち悪い。
気持ち悪い。
―――なぜ、俺の身体には覚の血が流れているのだろうか。
他者の心を見透かせる程度の能力が、これ程まで誰かに不快を与えているなど、思いもしなかった。
ただ、居るだけで誰かを不快にさせている。
こんな冷遇された世界になど、生まれてきたくなかった―――
過去、幻洛自身に降り掛かった精神的恐怖の記憶が、頭の中で鮮明に蘇っていた。
それは伊丹による、その者が過去に経験した恐怖の記憶を見せつける術だった。
心の奥底で固く閉ざされた遠い過去の記憶が、否応無しに引きずり出される。
長い年月をかけて塞いでいた心の傷が、たった一瞬で、再び深くエグれていくーーー
「っぐ、…!!」
幻洛は思わず伊丹から離れ、そのまま膝をついた。
一瞬の術から解放されたものの、その記憶は延々と、呪いのように幻洛の脳裏を彷徨っていた。
「…!」
目の前で体制を崩す幻洛に、伊丹は一瞬、ハッとした。
そして、分が悪そうに眉をひそめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「っ…、呪いを、どうするか、なんて…っ、たかが覚の分際で、何もできない愚か者が口を出すなッ!!」
己の前で跪く幻洛に、伊丹は罵声を浴びせる。
その怒りに満ちた声は、微かに震えていた。
「…これ以上、僕に関わるな…!」
その表情は、幻洛と同じくらい苦しみに満ちていた。
伊丹は不快そうにしながらも、静かに、足早に神社の方へ立ち去った。
それまで騒めいていた竹林の葉が、途端にしんと静まり返る。
「…クソッ!結局…こうなるのかよ…!誰かを救いたいという気持ちさえ、俺は…ッ!」
感情を荒げ、蹌踉めきながらもなんとか立ち上がる。
エグられた心の傷から大量の血が滴る感覚に、幻洛はギリッと鳴るほど歯を食いしばった。
『ーーー僕は好きですよ、貴方の能力。』
「…!」
過去の重苦しい記憶が蘇る中、ふと、伊丹の聲が聞こえるような気がした。
それは幻洛が初めて伊丹と出会い、彼から言われた言葉だった。
―――覚の血族であるという理由だけで受けてきた冷遇に耐えきれず、故郷を捨てた幻洛。
誰も自分を必要としていない。
自分がいなくなっても、悲しむ者など誰もいない。
いっそのこと、このまま…。
幻洛は行く宛もなく、数日間飲まず食わずに歩いた。
そんな中、偶然辿り着いた先が万華鏡村の境目にある竹林だった。
その竹林で、柳緑色の頭から狐耳の生えた妖狐、伊丹と出会った。
伊丹と出会った時、彼は怪異である邪狂霊に襲われていた。
狩衣が裂け、錯乱しながら抗う伊丹が目に映った幻洛は、一刻も早く彼を助けるべく、持っていた薙刀を構えて急行した。
疲れた、腹が減った、そんな事など考える余地もなかった。
今ここで手を差し伸べなければ、あの者は死んでしまうかもしれない。
消えてしまいそうな命が、生きるために戦っている。
救わなければ、ならない。
その一心で幻洛は戦った。
結果的に、幻洛はその邪狂霊を殺めることで事は収束した。
目の前で、容赦なく胴体を引き裂いて殺した。
…突然目の前に現れた男が覚の血を持っている者だったなど、この妖狐にも、さぞ軽蔑されるのだろうな…。
邪狂霊の返り血を浴びた幻洛はそう思っていた。
今更、誰かに軽蔑されるなど慣れた事だ。
どんな善意を行ったとしても、所詮、自分はその程度のアヤカシなのだから。
幻洛は無言のまま、すぐにその場を去ろうとした。
しかし、その返り血に濡れた腕を伊丹に掴まれ、そのまま引き止められた。
幻洛はその手を振り払うことなく、伊丹を見つめた。
右目を包帯で隠されたその妖狐の左目は、まるで深海のように蒼く、そのまま暗闇に引き込まれそうなほどで…
とても、綺麗だった。
伊丹の悲願するような思いに、幻洛は万華鏡神社に付属する屋敷へと招かれた。
屋敷には、彼の愛弟子である妖狐、ふゆはもいた。
ふゆはは幻洛という突然の客に、静かに驚いていた。
…こんな血塗れた浮浪者を屋敷に上げるなど、お前のツレも相当正気ではないヤツと思うがな。
幻洛はそう心の中で嘲笑った。
小さな客間へ案内された幻洛は、伊丹と共に疲弊しきった身体を休めた。
その間、伊丹と様々な話を、…というよりは、伊丹が一方的に話をしていた。
赤の他人に自分のことを語るなど、幻洛には出来ない事だった。
話は幻洛の種族についてのものだった。
幻洛は混血のアヤカシだが、身体に流れる血の半分は覚のものだ。
その証として、幻洛は生まれつき目の周りに隈取りが記されていた。
幻洛が覚の血族であることを知った伊丹は大変驚いていた。
伊丹は非常に興味深そうに幻洛のことを尋ねた。
それは警戒心によるものなどではなく、純粋な好奇心によるものだった。
なんでも、万華鏡村には覚というアヤカシそのものがおらず、珍しさのあまり皆が慕う種族だと伊丹は言った。
故に、覚に関する逸見も、この村の者たちにとっては皆無であった。
自分の存在を否定しないことを知った幻洛は、これまでの出来事を淡々と伊丹に語った。
他者の心を読み取る能力の事。
それに準じて、千里眼のような力が使える特殊能力の事。
そして、その能力のせいで、周囲から煙たがられてきた事も。
『僕は好きですよ、貴方の能力。』
伊丹は偽りのない笑顔でそう言った。
きちんと、幻洛の金眼を見ながら。
何故、伊丹が幻洛の能力を称賛したのかは思い出せない。
ただ、その言葉と、初めて向けられた純粋な笑顔が、いつの間にか幻洛の中で唯一の心の拠り所となっていた。
いつからだったか、伊丹を特別な感情で見るようになったのは―――
「ッ…!」
ズキンッ…と、心が痛む感覚に幻洛の思考が現実へと引き戻される。
忌々しい記憶に押しつぶされていた、伊丹との大切な記憶。
その記憶が、炎のように幻洛の中で蘇る。
「…こんな事で、諦められるか…ッ」
幻洛は傷つきながらも達観したような目で、その場を去る伊丹の背を見ていた。
………
亥の刻。
伊丹は屋敷へ戻らず、万華鏡神社の仕事部屋に身を置いていた。
無論、夕食すら食べることなく。
「伊丹…。」
ふゆはは今日の夕食を持ちながら、伊丹がいつもいる仕事部屋の前で心配そうに呟いた。
伊丹の式神が、困った様子でその部屋の前に立っていた。
「ふゆは様、今、伊丹様は…、」
「…構いません、…入ってどうぞ…。」
部屋の中から、聞き慣れた声がした。
しかしその声は、聞いたことのないほど弱々しいものであった。
式神は一礼しながら、ふゆはの入室を許可した。
ふゆはは普段より重く感じる襖を開け、部屋に入った。
そこには、壁に背を預けながら縁側の窓際に座り、何も見ていない表情で外を眺める伊丹の姿があった。
その色白で整った綺麗な顔は、闇夜の光のためか、より一層白く輝き、今にも消えてしまいそうだった。
あの厳しくも優しい、優しくも厳しい自分の師が、とても美しく、儚く見えた。
ふゆはは思わず息を呑み、その姿に見惚れてしまった。
そんな美人で儚い姿の者を、遠い遠い昔、どこかで見たような気がした。
それは、自分がこの世に生を受けた時。
優しい愛情を与えながらも、その背負っていた病により、幼きふゆはを残し、この世を去っていった者。
母…、上…?
ハッと、ふゆはは止まっていた息を吐く。
自分は今、何を考えていたのだろうか。
ふゆはは小さく咳払いをし、その心を整える。
「…伊丹、大丈夫…?今日は朝も、昼も、何も食べてないから…。」
ふゆはは伊丹の側に座り、彼の隣に今日の夕食を置いた。
「みんな、心配していたわ。」
伊丹は視線のみ、ふゆはの方へ向けた。
みんな、とは、誰から誰までのことなのだろうか。
心配、という概念は、皆どのように感じているものなのか。
わからない、自分には、何もわからない。
あの男なら、それすらもわかるのだろうか。
「…ありがとうございます…。少々、予想外の仕事に巻き込まれただけなので…。」
伊丹は預けていた背を起こしながら姿勢を正し、いつもの笑顔をふゆはに向けた。
予想外の、仕事。
そう、あれは予想外で、それを対処するだけの、ただの仕事だったのだ。
それで、いいんだ。
「そう…。」
ふゆはは短く、目を伏せながら返事を返した。
フワリと、夜風が優しく吹き抜けていった。
心身ともに疲弊しきっている師を前に、あまり長居はすまいと、ふゆはは立ち上がる。
「私だけじゃ頼りないかもしれないけれど、無理はしないで…。」
部屋の襖へ向かう途中、ふゆはは振り返り、心配そうな顔で伊丹を見つめた。
「………大丈夫です、ふゆはさん。僕はもう、大丈夫ですから…。」
伊丹はふゆはに微笑み、名残惜しそうに去り行く小さな背を見送った。
静かに、その襖が閉ざされる。
途端、伊丹はそのままゆっくりと突っ伏した。
「…、ごめんなさい、ごめん、なさい…。」
誰に対して、何に対して謝罪の言葉を述べているのか。
伊丹は既に、”自分自身”を見失っていた。
包帯で巻かれていない左目から、ひとしずくの涙が零れ落ちる。
伊丹は己の狩衣の裾を、皺になるほど強く握った。
ただ、冷たく、暗いところから、助けを求めていた。
………
ふゆはが伊丹の仕事部屋に訪れていた同時刻。
幻洛は屋敷裏の小高い丘にいた。
あの日の夜、伊丹と対峙した場所だ。
「…。」
幻洛はふと夜空を見上げると、煌々とした満月が雲の隙間から光を放っていた。
「こんなところで突っ立っているとは珍しいな、幻洛。」
幻洛は聞き覚えのある声の主の方に振り返ると、屋敷の屋根上からこちらを見下ろす、赤い髪の男が居た。
顔の左に残る、濃い傷跡。
万華鏡神社の警護隊の一人、裂だ。
「…まあ、今日は色々あってな。少し頭を冷やしていただけだ。」
幻洛は裂から視線を外すと、再び月の輝く夜空を見上げた。
「…伊丹の事か?」
「!」
伊丹、という単語に、幻洛は少しばかり目を見開いた。
図星か、と言わんばかりに、幻洛は悲しい笑みを浮かべながらフッと苦笑いした。
「…どうやら俺は、アイツを酷く追い込んでしまったようだ。」
…まあ、追い込まれたのは俺も同じだが、おそらく、この胸の苦しみは、伊丹の方が深刻なのは間違いないだろう。
幻洛はそう思いながら、己の拳をグッと握りしめた。
「まあ、伊丹は昔から良くも悪くも、不可思議なところがあるからな…。」
裂はそう言うと、幻洛と同じように夜空を見上げた。
「俺がこの屋敷へ来る前、伊丹に助けられた事は知っているだろ?」
「…ああ、そうだったらしいな。」
裂が切り出した話に、幻洛はフッと笑った。
裂が屋敷へ来る前、彼は悪名高い犯罪組織集団の一人だった。
そしていつの日か、組織のやり方に不満を抱いていた裂は集団の反感を買い、邪狂霊が多数出没する樹海へ置き去りにされた。
その樹海に偶然居合わせていたのが伊丹だった。
「あの頃の記憶はまだ鮮明に覚えている。それくらい、伊丹は強い存在だった。」
裂は話を続けると、少し表情を曇らせた。
「…ただ、あのとき俺に手を差し伸べた伊丹は、…何も見ていない様子だったけどな…。」
「…。」
幻洛は裂の話を黙って聞いていた。
目はこちらを向いているのに、何も写っていない目。
それはまるで、伊丹の姿をした抜け殻のようなものだったのだ。
「…さて、俺はそろそろ任務に行くよ。異形化した邪狂霊の件もあるし、…今夜は少し楽しめるかな…。」
裂は怪しい笑みを浮かべながら頭巾を深々と被ると、幻洛に背を向けた。
組織に裏切られたあの日から、裂は戦うことに対して歪んだ感情を抱いていた。
「おい、また深追いしすぎるなよ。」
「…ハハッ、御意。」
幻洛の忠告を聞いているのか否か、裂は軽く返答すると闇の中へ姿を消した。
「…。」
幻洛の周りに、再び静寂が訪れる。
「………俺は、ただ伊丹を救いたい。それだけだ。」
誰宛にでもなく、幻洛は夜空を見上げながら呟いた。
冷たい夜風が優しく吹き付ける。
『…これ以上、僕に関わるな…!』
あの時、己を取り乱した伊丹は、はっきりと幻洛の眼を見ていた。
そして幻洛もまた、深海のように蒼い伊丹の眼を捕らえていた。
―――――僕は何故、こんな呪いを背負ったまま生まれてきてしまったのだろう。
これは神のいたずらなのか、それとも、周囲より強い霊力を持つ者の対価なのだろうか。
ゆっくりと、確実に、自分の身体が呪いに蝕まれていくのを実感している。
その呪いの進行を抑える為、身体中に包帯を巻き、ずっとずっと、迫りくる恐怖から目を背けてきた。
それでも、呪いの進行は完全に抑えられていないのが、やっと、ようやくわかった。
見えない魂が、よりはっきりと見えるようになってきた。
聞こえない聲が、よりはっきりと聞こえるようになってきた。
あちら側の世界に、刻一刻と取り込まれている。
もう、どうすることもできないんだ。
いつか、僕が僕でなくなる日が来るのだろう。
重い。痛い。寒い。苦しい。寂しい。
怖い。
誰か、助けて―――――
覚の力で読み取れた伊丹の真意。
抗い、幻洛を払い除けた行動は、もはやただの自暴自棄だったのだ。
その程度で、身を引くとでも思ったのか。
「…俺が諦めの悪い男で残念だったな。」
幻洛は誰かを嘲笑うかのように呟いた。
幻洛の金眼のように輝く黄金の月が、暗闇を振り払うように幻洛を明るく照らしていた。
氷のように冷たい夜風を感じながら、幻洛はゆっくりと自室へ戻っていった。