亥の刻。
万華鏡神社付属の屋敷に戻った幻洛と伊丹は、ふゆは、ナギ、劔咲、裂と緊急会議をしていた。
「…と、言うことだ。」
幻洛は今日起こった出来事を全て話した。
「…。」
全員険しい表情で静まり返り、いつも賑やかな茶の間は暫く無音と化した。
「やはり、ヤツはまだ近くに居たというわけか…。」
最初に静寂を崩したのは裂で、以前、あの雪女の親子を助けたときに見た例の怪異を思い返していた。
幻洛や伊丹から提示された情報と一致していたため、裂自身も、ヤツで間違いないと確信した。
「何はともあれ、二人共無事で良かった。」
次に発言したのは劔咲で、裂と同様、あの日の怪異であることを確信していた。
依然として明確な正体を知ることは出来なかったが、一先ずといった表情で、安堵の様子を見せていた。
「…伊丹、あの、その怪異は…。」
そんな中、ふゆはは不安そうに呟いた。
未知なる恐怖に、その声は少しばかり震えていた。
「大丈夫ですよ、ふゆはさん。逃げられたとはいえ、弱らせることは出来ましたので。」
不安がるふゆはに、傍らに座る伊丹は優しく応え、狐耳の生えた藤色の頭を撫でた。
その姿は、本当の親子のようであった。
…本当は”弱らせる”というより、”怒りに任せて徹底的にいたぶり窮地に追いやった”わけだが、そこは隅に置いておいた。
「…どんなヤツであれ、ふゆはは俺が守る…。」
相変わらず無表情のナギは、普段どおり口数も少ないがはっきりと言葉を放った。
ナギも過去に、例の怪異から襲撃を受けている。
それでも、たとえどんな怪異であっても、恋仲であるふゆはを守る意思は強かった。
改めて、と伊丹は軽く咳払いをする。
「この屋敷を含め、万華鏡神社の結界は今まで以上に強化を施しました。また、僕とふゆはさんの式神たちも、一層の警戒に徹するよう力を込めました。」
伊丹は真剣な面持ちで皆に伝えた。
万が一、億の一の可能性も考慮し、徹底的に警戒しなければならない。
仲間を、大切な者を守るために。
「…後は、この村全体の動きがどうなるか、だな。」
幻洛は独り言のように呟いた。
その顔はまさに策士のようだった。
これまで数多くの邪狂霊と戦ってきたが、今回の怪異は例外中の例外だ。
いつも巡回している万華鏡村の警護も、最大限の警戒をしなければならない。
皆で今後の対策について語り合い、そのまま刻は流れていった。
………
もうじき日付が変わろうとしていた頃、伊丹は湯浴みを終え、脱衣所で身体を拭っていた。
「はあ…。」
今日戦った疲れを露わにするように、伊丹は深く溜息をついた。
あれほどまで本気で戦ったのは、一体いつぶりだろうか。
伊丹はふと、鏡に映った自分の姿を見た。
「…そういえば、暫く気にしていなかったなあ…。」
それは自らの身体に巻かれている包帯のことだった。
この包帯は、伊丹の身体を蝕んでいる呪いの進行を遅らせる術がかかっており、たとえ湯浴み中であっても外すことはしなかった。
最後にこの包帯を取ったのはいつだろうか。
身体が蝕まれているという現実を受け入れたくなかった伊丹は、極力外すことはしなかった。
前に外したのは腕の包帯のみで、幻洛と結ばれる前の頃だった。
伊丹は何気なく、その腕に巻かれている包帯をするりと解いた。
おそらく、また少しだけ進行しているのだろう。
そう、思っていた。
「え…?」
目の前に映るものは、現実なのだろうか。
伊丹は驚きのあまり、よろりと体勢を崩した。
呪いの痣が、無くなっている。
伊丹はそのまま尻餅をついたが、今はそんな事などどうでもよかった。
「痣、が…!?」
完全に消失したわけではないが、目を凝らしてようやく確認できるほど薄くなっていた。
「え、え、なん、…!?」
伊丹は今、何が起きているのか理解できなかった。
長年身体を蝕まれ、全てに絶望し、苦しんできたあの呪いが…。
伊丹はその場で固まっていた。
はたと何かを思い出したかのように立ち上がり、サッと浴衣に着替えて風呂場を飛び出していった。
………
「げ、幻洛さんっ…!!」
「ん?」
伊丹が自室の襖を開けると、そこには当たり前のように幻洛がいた。
幻洛は布団の上で、青く長い爪をパチンパチンと丁寧に切っていた。
慌てふためきながら駆け寄ってくる伊丹に、幻洛は一瞬身構えた。
まさか例の怪異か、と思ったが、伊丹の様子を見る限り、別件のようだった。
「あのっ、あの、僕っ…、ゆ、夢でも、見ているのでしょうか…。」
「!!」
取り乱しながらその腕を見せてきた伊丹に、幻洛は言葉が出なかった。
「これ、は…!?」
かつて呪いで蝕まれていた腕の痣は、あの有様が嘘だったかのように劇的に薄くなっていた。
「おい、伊丹、いつからこうなっていたんだ…!?」
「…わ、わかりません、ついさっき、湯浴みの後に…、その、最近まで全く気にかけていなく…、久しぶりに包帯を、と…、」
伊丹は気を動転させながらも、懸命に幻洛に説明した。
「…。」
幻洛は気持ちを落ち着かせ、かつて呪いで蝕まれていた伊丹の腕を優しく掴みながらじっと見ていた。
「…やはり、そういうこと、なのか…?」
「な、何がです…?」
幻洛の意味深な言葉に、伊丹は不安そうな表情で首を傾げた。
幻洛は落ち着くように一呼吸置くと、真剣な面持ちで伊丹を見つめた。
「…伊丹、お前は以前、俺と結ばれてから見える世界が変わっている、と言っていたな?」
当時を思い出し、伊丹はコクンと頷いた。
幻洛は話を続けた。
「その呪いも、押さえつけられるような重さを感じなくなった、と言っていたな?」
「はい…。」
伊丹は同様に思い出し、今度はきちんと返事を返した。
「それは、いつからだ?」
「…その、初めて幻洛さんと夜に交わった日から、です…。」
伊丹は少し恥ずかしそうに、包み隠さず話した。
幻洛のツガイとなり、情交も行ってきた。
その日から、今まで聞こえていた霊界の聲が聞こえなくなり、”あちら側”に引き込まれる感覚も無くなった。
身体にのしかかるような重たさも同様で、幻洛と共に過ごすようになってから、その気怠い感覚も日に日に無くなっていったのだ。
「………伊丹、これはあくまで俺の仮説に過ぎないが…。」
幻洛はたっぷり時間をあけ、日々疑問に思ってきたことを全て伝えた。
「俺と交わることで、お前の呪いが打ち消されているのではないかと思っている。」
「!!」
幻洛の言葉に、伊丹は顔の熱がドッと上がった。
それは伊丹もまた、幻洛の仮説と同じことを薄々と感じていたからだ。
「他に、伊丹は何か気になった事はあるか?」
「あ、の…。」
幻洛に問いかけられ、伊丹はゆっくりと口を開いた。
「その、…幻洛さんのものが僕の中に出されたとき、暗く重い何かが砕け散るような気がするんです…。」
伊丹は恥ずかしそうに頬を赤く染め、じっと見つめる幻洛から目をそらすように視線を落とした。
「まるで、暗闇で僕を縛り付ける錆びついた鎖が、一つ一つ壊れて解放されていくような感覚で…。」
羞恥で消え入りそうな声をしながらも、伊丹はしっかりと幻洛に伝えた。
「そうか…、はやり少なくとも、この仮説の可能性は有り得そうだな…。」
否、伊丹が内で秘めていた言い分も合わせると、もはや確定と言っても過言ではないのだろう。
幻洛は相変わらず、伊丹の蝕まれていた腕をじっと見ていた。
そして伊丹もまた、掴まれた腕を恥ずかしそうに見ていた。
このまま続ければ、いずれは呪いから完全に解放されるのではないだろうか。
「…。」
「…。」
暫くの間、無言の時間が過ぎていった。
突然、幻洛はするりと伊丹の腕に唇を寄せた。
「あ…、幻洛さん…!」
薄れているとはいえ、かつて呪いで蝕まれていた箇所だ。
誰にも触れられたことのないその場所は、未だ何が起こるかわからない。
伊丹は咄嗟にその腕を引こうとしたものの、しっかりと幻洛に掴まれてしまい、されるがままとなってしまった。
その呪われた痣に、初めて、幻洛の唇が優しく触れた。
「…伊丹の呪いが消えている、まさか、こんな日が来るとはな…。」
「…。」
嬉しさを噛みしめるように呟く幻洛に、伊丹は心臓が高鳴った。
生まれて初めて呪いの痣に触れられた感覚。
優しくもしっかりと掴む幻洛の雄々しい手。
心地よい重低音の幻洛の声。
「…幻洛さん…、ありがとうございます…。」
いつの間にか伊丹の焦燥と羞恥は消え、その心は安らぎに満ちていた。
もしも彼と出会っていなかったら、自分は今頃どうなっていたのか。
そんな事など、考えたくもない。
彼のツガイとなったこと。
彼と出会えたこと。
彼がこの世界に生まれてきてくれたこと。
彼の全てに、感謝の気持ちを綴りたい。
彼の全てを、愛したい。
この幻洛というアヤカシが、呪いというシガラミを解放しようと懸命に向き合ってくれている事実に。
伊丹は湧き上がる感情で心がいっぱいになり、目頭が熱くなるのを感じた。
「やっぱり、夢でも見ているみたいです…。」
「…夢ではない。」
掴まれている腕をそのままに、伊丹はぐいっと引き寄せられ、幻洛の胸元に抱き寄せられる。
「これは現実、だ…。」
幻洛は金眼で伊丹を捕らえ、腰に手を回し、その唇に優しい口付けを落とした。
「ん…っ」
伊丹も応えるように身を寄せ、遠慮がちに舌を絡ませた。
その口付けは、次第に深く、熱を帯びていった。
ちゅ…、と音を立てながら唇を解放された伊丹は、頬を赤く染め、熱の籠もった蒼い眼で幻洛を見つめた。
幻洛もまた、湧き上がる欲にギラリと金眼を光らせた。
「…あの、幻洛さん…、」
「いいのか?」
「!」
突然の言葉に、伊丹は心臓の鼓動が早まるのを感じた。
「…すまない、つい先走って心を読んでしまった。」
幻洛は早くも揺らぐ理性に内心舌打ちをしながら、少しばかり分が悪そうに詫び言を述べた。
今日の今日、あんなことがあったのだ。
伊丹も疲弊しているとは思っている。
無理強いなどできない。
「…幻洛さんに隠すことなんて、何もありません…。」
「!」
甘えるように身を寄せてくる伊丹に、幻洛はごくりと喉を鳴らした。
近くに感じる、伊丹の匂い。
たとえ湯浴み後であっても、幻洛の理性を刺激するには十分だった。
「伊丹…。」
「あっ、…」
たまらず、幻洛は伊丹に抱きついた。
背に感じる筋肉質な腕と、身体から放たれる幻洛の匂い。
伊丹もまた、その圧倒的な雄の感覚に思考が甘く酔い始めていた。
「…改めて、今日の礼を言わせてくれ…。」
幻洛はふと顔を上げ、伊丹の首筋にそっと手を添えた。
「…俺の心を救ってくれて、ありがとう、伊丹。」
「幻洛さん…。」
伊丹はうっとりと、その金眼を見つめていた。
「…僕だって、これ以上ないくらい救われています…。幻洛さん、ありがとうございます…。」
伊丹もまた、幻洛の頬にそっと手を添えた。
このままずっと、僕のことを見ていてほしい。
そう思いながら。
全ての承知を得たかのように、幻洛は伊丹の鎖骨にゆっくりと噛みついた。
「あ、ぅ…」
歯と舌で優しく嬲られる感覚に、伊丹は甘い声を漏らし、ビクンと肩を震わせた。
背に回された幻洛の手が、腰から尻尾の付け根をスルスルと撫で上げ、伊丹の身体は着実に熱を帯びていった。
幻洛は伊丹の首筋を舐め上げ、ヒト型の耳に唇を押し当てた。
「…今日のこともある、だから、できる限り、優しく抱く。」
「は、ん、っ…。」
直接感じる重低音の声に、伊丹は性的な快感で思わず声を漏らし、身体を震わせながら幻洛の背にしがみついた。
そんな気遣い、いらないのに。
伊丹はそう思いながら、幻洛の膝の上に跨がり、更に身体を密着させた。
太腿に感じる熱い塊の存在をもっと感じようと、伊丹はスリスリと腰を動かした。
そんな伊丹の妖艶な姿に幻洛も理性を崩され、一層力強く、その細い身体を抱き寄せた。
伊丹は物音を遮る術と戸を閉める術をかけ、部屋の灯もそっと落とした。
暗闇に包まれた寝室に、黄金に輝く月の光が優しく注ぎ込まれる。
大切な者を、呪いから守るため。
大切な者の、心を守るため。
互いが互いを求め合いながら、静かな夜はゆっくりと更けていった。