「…今日も何事もなく平和な日、だったな…。」
ときは酉の刻。
幻洛はいつものように、万華鏡村の巡回を終え、帰路についていた。
あの悪夢を見た日から、数日経った。
それから特に不可解な出来事もなく、比較的平和な日常を過ごしていた。
依然として、あの”良からぬ者”と称される怪異の情報も無く。
「…。」
伊丹と夜の交わりも、毎日ではないがそれなりに行っている。
また、伊丹が背負っている呪いの件も解決していないが、伊丹曰く”以前とは比べ物にならないくらい身体が軽く、心も晴れやかだ”と話している。
とはいえ、伊丹が両性器を所有している理由も未だ解明されていない。
もしや、伊丹との情交が、蝕む呪いを退いている可能性などーーーーー
「万華鏡神社在住、幻洛はそなたか?」
「!」
突然の呼びかけに、幻洛は足を止めた。
声の主に振り向くと、そこには見知らぬ男が数名立っていた。
「…何の用だ…。」
警戒するように薙刀を持ち替え、幻洛は低く唸った。
ギラッと薙刀は月の光で反射する。
男たちは怯む様子もなく、幻洛に詰め寄った。
「この村を治める最高の支配者、帝がお呼びだ。」
「………は?」
幻洛は思わず間の抜けた声を漏らす。
万華鏡村のしがない一村民である自分を、一体、何の用で、帝、が…?
「帝の命だ、大人しくついてくるように。」
困惑する幻洛に、男は言い聞かせるようにピシャリと言葉を放った。
「…。」
幻洛は金眼をギラリと光らせ、この男たちの思考を読み取った。
どうやら帝の使いであることは間違いないようだ。
であれば、下手に逆らい、大事になることは絶対に避けなければならない。
そう思いながら、幻洛は不服そうに溜息をつきながら連れられていった。
………
もうじき戌の刻を過ぎる頃だろう。
長い道のりを歩かされた幻洛は、ようやく皇居へとたどり着いた。
万華鏡神社とは違う、圧倒的な装飾で施された建物は、静かであるにも関わらず、凄まじい威圧感を放っていた。
「お連れしました。」
幻洛は男に連れられ、帝の前で跪かされる。
持ち前の薙刀は、帝の使者に奪われていた。
薄暗い宮中のせいもあり、幻洛は遠い玉座に座った帝の顔を見ることが出来なかった。
「………どのようなご用件でしょうか。」
幻洛は顔を下に向けながら、淡々とした態度で伺った。
重圧感のある空気に、幻洛は早速居心地の悪さを感じていた。
思い出したくもない過去、自分の故郷に居た頃のようだ。
あの頃も、このように大衆の前で跪かされーーーーー
「…幻洛よ、本日を境に、万華鏡村から追放する…。」
「!?」
突然の言葉に、幻洛はバッと顔を上げる。
「な、ん…、」
今のは聞き間違いだ、過去の記憶に浸っていたから、聞き間違いに違いない。
「…お前を、万華鏡村から、追放する…。」
幻洛の思いも虚しく、帝は同じ言葉を繰り返した。
嘘だ。
俺が一体、何をしたというのだ。
これまで縁もゆかりも無かった帝という存在が、何故、今更、追放など。
幻洛は頭が真っ白になり、何も考えることが出来なかった。
「お前は…、万華鏡神社の伊丹に、なぜそこまで執着する…。」
固まる幻洛を前に、帝は冷淡に話しを進める。
「…あの伊丹は非常に強い陰陽師だ、…が、近頃はどうだ、…。」
たっぷりと間を開けるように、帝は大きな溜息を吐いた。
「…お前に泥酔し、術者としての力が…弱くなっていると見受けられる…。」
「!」
伊丹は万華鏡神社の神主である一方、万華鏡村一の妖術・霊術を持つ陰陽師でもあり、幻洛、ナギ、裂とは別の角度で万華鏡村を怪異から守ってきた。
そんな伊丹は生まれてから一度も、幻洛以外の者と、身体の関係はもとより恋愛すらしてこなかった。
『幻洛さんと結ばれてから、少しだけ見える世界が変わっている気がするんです。』
以前、情交の前に、そう呟いていた伊丹。
まさか、術者としての力が弱くなってることを意味していたというのか。
「…何故だ、幻洛よ…、何故、お前は伊丹に執着する…?」
淡々と話す帝に、幻洛は心が抉られる感覚に陥る。
違う、これは執着ではない。
唯一の心の拠り所である伊丹を、誰にも打ち明けていない呪いから救いたかった。
ただその一心で、伊丹を守りたいだけだった。
「…たかが混血の覚であるお前が、あの伊丹の力を弱めるなど、断じて許せんのだ。」
帝の言葉が幻洛の心に突き刺さり、心臓がバクバクと悲鳴を上げる。
幻洛は恐怖心に支配され、肩を小さく震わせた。
「ッ…お待ち下さい、俺は、ただ伊丹が…ッ!」
「控えろ!無礼者!」
反論しようとする幻洛に対し、帝の使者たちは咄嗟に幻洛を押さえつける。
幻洛の力であれば、使者たちの押さえつける力など容易く跳ね除けることが出来る。
だがしかし、帝の命令は絶対だ。
逆らうのであれば、万華鏡神社の仲間も、伊丹も危険な運命に晒すことになる。
そんなことは許されない。絶対に。
だとしても、このまま大人しく追放を受けるなど、出来るはずもなかった。
「帝の前であらせられるぞ!恥を知れ!」
「ぐッ…!」
無理やり頭を地面に押し付けられ、幻洛は額を強打する。
そんな額の痛みなどどうでもいいくらい、幻洛は心がズキズキと唸っていた。
「………ッ!」
どれだけ足掻いても、選択肢は二つしか無いのだ。
帝の命令を受け入れ、万華鏡村を出るか。
帝の命令に背き、抗い、仲間を、伊丹の運命を危険な状態に晒すか。
嗚呼、もう、一層のこと、消えてしまいたい。
伊丹の居ない世界を彷徨うくらいなら、このまま、自らの命をーーーーー
「やめてください。」
「!!」
聞き覚えのあるその声に、幻洛の思考は現実に引き戻される。
柔らかくも凛とした芯のある、愛おしい者の声。
鶴の一声ならぬ、狐の一鳴きとでも言うべきか。
「何者だ!」
使者たちが振り向いた先に、その姿はあった。
月の光を背に、開かれた宮中の扉の前に立つ、狩衣を着た柳緑色の髪の妖狐。
「お前は…、伊丹…!?」
「貴様!何処からッ…!」
思わぬ来客の姿に、帝の使者たちは酷く動揺した。
「聞こえませんでしたか?」
怒りに満ちた伊丹の声が宮中にはっきりと鳴り響く。
伊丹がスッと片手を振り上げると、無数の呪符が飛び交った。
「うわああッ!!」
「ぎゃあ!!」
その呪符は幻洛を押さえつける使者たちに襲いかかり、突き飛ばすように引き剥がした。
「…。」
解放された幻洛は、状況が読めない様子で唖然としていた。
何故、伊丹がここに居るんだ。
巡回の帰路で連れ去られ、俺がここに居ることなど誰も知らないはずだ。
「!」
幻洛はハッとし、自らの懐にあるものを取り出す。
伊丹が幻洛たちに持たせている、護符の札。
以前、伊丹が失踪した件で、幻洛はこの護符から放たれる力を頼りに伊丹の居場所を突き止めた。
これは、伊丹の力と繋がっている大切な護符。
まさか、今度は自分が見つけ出される立場になるなど、幻洛は思ってもいなかった。
「ッ…!ええい、無礼者が!!何方の前と思っている!?」
突き飛ばされた使者は、怒りを露わに声を荒らげた。
しかし、伊丹の圧倒的な術の力に、その声は少しばかり震えていた。
「…僕が無礼者なら、貴方はとんだ愚か者ですね。」
呆れるように、伊丹は尻餅をついている使者を横目に見下ろしていた。
「本当に一体、何方の前、なのでしょうかね…。」
伊丹は目を伏せ、ひっそりと、意味深な言葉を呟いた。
「…ああ、嘆かわしいことだ、…伊丹よ、…余程、そのアヤカシに干渉されてしまったというのか…。」
まるで演じているように脱力する帝の声に、伊丹は狐耳をピクッと向ける。
相変わらず遠くの玉座に座る帝の姿は暗闇に紛れ、その顔すら見えなかった。
「…フフッ」
そんな帝を嘲笑うかのように、伊丹はニコッと笑みを向ける。
その蒼い眼は、全く笑っていなかった。
「お言葉ですが、帝、私も今この状況を、非常に嘆かわしく思っています。」
「!!」
伊丹の言葉に、幻洛は冷や汗をかいた。
このままでは、帝を敵に回してしまうことになる。
そんな幻洛を気にする様子もなく、伊丹は話を続けた。
「貴方がこのような無垢な村民を追い詰めるなど、些か残念でなりません。」
伊丹は傍らに跪いたままの幻洛をチラリと見た。
そして幻洛もまた、傍らに立つ伊丹を見上げた。
伊丹の眼を見た幻洛は、恐怖ではない意味でゾクッとした。
今、伊丹は、本気で怒っている。
「言葉遊びにお付き合いする時間も惜しいので、単刀直入にお伺い致します。」
伊丹は幻洛から視線を外すと、フッと瞼を閉じた。
そしてこれまでの笑みを消し、真剣な面持ちで、包帯に巻かれていない左目をスッと開ける。
「”貴方”は、誰ですか?」
伊丹の言葉が、言霊のように宮中に広がる。
帝はまたしても、演じているように大きな溜息を吐いた。
「…嗚呼、伊丹よ…、お前はどこまで正気を失ってしまったのだ…。」
「そうですね、僕は今、正気でないかもしれません。」
伊丹はグッと拳を握りしめ、沸き立つ怒りを堪えていた。
僕の幻洛さんを傷つけた。
腹立たしい。
腹立たしい。
腹立たしい。
平常心を装いながらも、怒りを露わにするように、伊丹の尻尾はブワッと逆立っていた。
「…なので、一つ試させていただきましょうか。」
伊丹はいつも通りの声色で、とある術を繰り出した。
伊丹は空中で呪文を指で書いた。
そして、その呪文にフッと息を吹きかけると、宙に浮かぶ文字が光を発し、無数の光線となって使者たちに襲いかかった。
「うわ!!…ッ!?」
しかし、使者たちは何事も無く、無数の光もそのまま散ってしまった。
「この術は、生きている者には効果のない特殊霊術です。」
「…!!」
伊丹の言葉に、これまで平静としていた帝は酷く動揺した。
この動揺が何を意味するのか、傍で見ていた幻洛もようやく理解したのか、まさか、と呟いた。
幻洛の覚の力でも見抜けなかった。
やはり、伊丹は並外れの力を持った陰陽師だ。
「…さて、”貴方”が帝なのであれば、この術を受けても何も起こらないはずですよね?」
伊丹は止まることなく、先程と同様に呪文を書き始める。
帝の使者たちもこの異変に気が付いたのか、ざわつきながらも、もはや止めることはしなかった。
伊丹は呪文にフッと息を吹きかける。
同時に、無数の光が帝に襲いかかろうとしていた。
「…ッ、貴、サ、…マ…!!」
「!!」
突然、帝は軸の定まらない身体で立ち上がる。
その口から吐き出されるように黒く禍々しい気配が飛び出し、逃げるように伊丹の元へ突進してきた。
「うわああ!!」
「ぎゃああ!!」
何が起きているのか理解の追いつかない使者たちは、ただひたすら悲鳴を上げていた。
「っ…!」
伊丹は咄嗟に結界の術を繰り出し、突進してくる禍々しい気配の怪異から幻洛共に身を守った。
結界に弾かれたその怪異は、伊丹に構うことなく、宮中の扉から外へ飛び出していった。
「ッ…おい…!」
逃げられる、と思い幻洛は咄嗟に立ち上がった。
しかしそんな幻洛を静止するように、伊丹はそっと前に出る。
幻洛は、伊丹から放たれる術の気配をひしひしと感じた。
これのどこが、”術者としての力が弱くなっている”と言えようか。
「帝!帝が…!」
「あ、ああ…、なんてことだッ…!」
蛻の殻となり、ぐったりとしたままの帝に、使者たちは嘆きながら駆け寄っていた。
「早く、貴方達は帝を安全な場所へお連れください。…あの者は、僕が片を付けます。」
伊丹は取り乱す使者たちに言い放ち、その光景を横目にしながら、怪異を追うようにゆっくりと表へ歩いていった。
「僕が、無策でここまで来たと思ったら大間違いですよ。」
最初から見透かしていたかのように、伊丹は淡々と呟いた。
「待て!伊丹ッ!」
「…!」
後ろから駆けつけた幻洛に、伊丹は腕を掴まれる。
いつの間にか使者から奪い返した薙刀も握られていた。
「ヤツは危険だ、お前は下がっていろ!」
「幻洛さん…。」
幻洛はいつになく真剣な面持ちで伊丹に言い放つ。
伊丹は幻洛を見上げると、何かに耐えるように口を噤んだ。
「…すみません、幻洛さん。ここは僕に行かせて下さい…。」
普段、伊丹は前線に出ることなどなく、幻洛たちの後方支援という形で戦ってきた。
しかし、この日の伊丹は違った。
「お願いです…。」
「伊丹…。」
幻洛を見上げる伊丹の目には、強い決意に満ちあふれていた。
幻洛は思わずゴクリと喉を鳴らす。
「…無茶するなよ。」
幻洛は伊丹の意思を尊重し、そっと腕を解放した。
そのまま伊丹の首筋にするりと手をあてがうと、幻洛は額に優しい口付けを落とした。
少しだけ、心の緊張が解れた伊丹は、頬を赤く染めながら幻洛と見つめ合うと、そのまま足早に宮中を後にした。
伊丹に万が一の事があれば咄嗟に助太刀に入れるよう、幻洛もその背を追い、月明かりに照らされた場外へと向かった。
………
『ヒギア”ァ”縺 >縺ゅ≠縺ゅ≠ァ”ッ”!!』
外へ出ると、のたうち回る禍々しい気配の姿があった。
予め、伊丹が仕掛けていたのだろう。
皇居から出られないよう張られていた結界に捕まり、伊丹の力が込められた呪符に身体を支配され、怪異はこの世の言葉ではない言葉を荒れ狂うように叫んでいた。
「…。」
伊丹はジロリとその者を見据えた。
触手で覆われたヒト型の身体。
その合間から見える、顔の無い大きな口。
鎌のような腕と、蟲のような脚。
そして、その見た目以上に感じる強く禍々しい気配。
以前、劔咲と裂、そしてあの嶽心から報告のあった、例の怪異のようだ。
『ア”アァ”、險ア縺輔↑縺…!!伊タ、…ッ!!キ、様ァ”…!!』
「黙りなさい。」
伊丹は凛とした声で言い放ち、掌を力強く握りしめる。
途端に、怪異の身体を締め上げていた複数の呪符も一層の力を増し、骨の軋む音がミシミシと鳴り響いた。
伊丹は力を弱めること無く、藻掻き苦しむ怪異の身体を呪符で押さえ続けた。
「貴方は帝のお体を乗っ取り、無礼を働いた。」
伊丹はゆっくりと怪異に近づく。
「…否、それ以前に…、」
怪異を見下しながら、伊丹は思いの全てを吐き出すように口を開いた。
「僕の幻洛さんの心を弄んだ。その代償、痛めつけるだけでは気が収まりません。」
身の毛のよだつほど、伊丹の声は怒りに満ち溢れていた。
伊丹は握りしめた拳を振り上げ、そのまま勢いよく振り下ろす。
その動きと連動するように怪異も振り上げられ、ダァンッ、と勢いよく地面に叩きつけられた。
『ギギ、繧?k縺輔↑縺繧?k縺輔↑縺…』
触手で覆われた怪異は、その大きな口から泡を吐いていた。
「幻洛さんがどれだけ辛く苦しかったか、その身で味わいなさい。」
伊丹は術を展開し、青く光り輝く空間から錫杖を召喚した。
そして再び呪符を繰り出し、周囲を包囲する。
伊丹は地面を錫杖で叩いた。
ジャン、と遊環がぶつかる金属音が鳴り響くと、周囲に撒かれた呪符が光りだす。
途端に、呪符は光り輝く矢に姿を変えた。
伊丹が錫杖を前に振り翳すと、光り輝く無数の矢は怪異めがけて飛び放たれた。
『ガア”ァ”縺薙l縺ァ蜍昴ア”ァァ”、▲縺溘→諤昴≧縺ェアア”ァ”ァ”ッ!!』
光の矢は凄まじい速さで降り注ぎ、ザシュッ、と鈍い音を上げながら、怪異の身体に突き刺さる。
周囲には怪異の鮮血が飛び散った。
伊丹はとどめを刺すように、空中に呪文を書いた。
「愚か者め。」
怪異を睨みつけながら言い放つと、無数の光線が怪異に向かって飛び交った。
ズバババッと閃光が怪異に命中し、触手で覆われた大きな身体が蟲のように蠢く。
「!」
突然、怪異の身体が分散し、溶けるように地中へと姿を消した。
禍々しい気配が嘘のように無くなり、騒がしかった周囲に静寂が訪れる。
「手応えはあった、けれども…。」
おそらく、最後の足掻きで逃げられた。
あと、もう少しで仕留められたのに。
伊丹は悔しさで表情を曇らせた。
「伊丹!」
遠くから聞こえる、愛しい者の声。
「幻洛さん…!」
振り返るとそこには、こちらに駆け寄る幻洛の姿があった。
たまらず、伊丹は幻洛に抱きついた。
「…良かった、無事で、本当に…、幻洛さんに何かあったら、僕…、」
「!!」
離したくないと言わんばかりに、伊丹はギュッと力を込めた。
突然、伊丹はハッとし、幻洛から身を引いた。
「あ…、いえ、あの…!」
ここが何処なのかを思い出したようで、伊丹は先程の振る舞いを後悔しながら困った表情で頬を赤く染めた。
「伊丹…。」
「わ…!」
そんな伊丹をよそに、今度は幻洛から伊丹を抱き寄せた。
逞しい腕に囚われて、伊丹は逃げ出すことが出来なかった。
幻洛は伊丹の存在を確かめるように、その首筋に顔を埋めた。
「あの…!幻洛さん…!皆が見ていますから…っ!」
「構わん。」
伊丹は必死に幻洛から脱出しようと抗うも、物理的な力の差は歴然としており、その抵抗は無駄なものに終わった。
幻洛は顔を上げると、するりと伊丹の頬に手を添えた。
月のように輝く金眼が、”伊丹”の存在を優しく捕らえていた。
「…俺を救ってくれてありがとう、伊丹…。俺の、自慢の伴侶だ…。」
「っ…!」
幻洛はそのまま、伊丹の唇に口付けを落とした。
ちゅ、と軽く吸われ、反応するように伊丹は肩をビクッと震わせた。
「ん、…も、もう…!わかりましたから…!」
お戯れが過ぎます、と伊丹は顔を真っ赤にしながら、幻洛からプイッと顔を背ける。
そんな光景に、幻洛はニヤニヤと口角を緩めながらもようやく伊丹を解放した。
伊丹の狐耳は、困ったように下げられていた。
ここは皇居なのだ。
帝の関係者たちが集うこの場で、ましてや男同士で、こんな光景を見せられたら、不可解に思う者がいることなど目に見えている。
万華鏡神社の仲間たちにだって、打ち明けていない関係だというのに。
遠くから、パチパチと手を叩く音が耳に入った。
「!」
その音は次第に大きくなり、幻洛と伊丹の周囲で鳴り響いていた。
伊丹は廻りを見渡すと、帝の関係者たちが笑顔で、まるで二人を祝福するように称えていた。
今日の怪異以上に予想もしていなかった出来事に、伊丹はぽかんとしていた。
きっとこれは、あの怪異を退いたことに対する賞賛なのだ。
素直になれない伊丹はそう思いながら、自らの気持ちを納得させていた。
そんな中、幻洛は伊丹の腰に手を回し、その関係を見せつけるように堂々とした笑みで廻りを見渡していた。
「それにしても伊丹、あの怪異は…、」
「コホン、…それについては、僕からも言いたかったところです…。」
伊丹は軽く咳払いをし、乱れた、というより乱された気持ちを整理した。
「…邪狂霊のようでしたが、僕らと同じように、確実な意思を持っていました。」
見た目は異形と化した邪狂霊。
だがしかし、本来の邪狂霊ではありえない自我、もとい自らの意識を持っていた。
通常あのように、誰かの身体を乗っ取るなども事例がないことだ。
また、邪狂霊になると言葉を失い、唸ることしか出来なくなるが、あの怪異は言葉を発していた。
「そしてあの禍々しい霊力…、やはり複数人の力が合わさっていると思われます。」
伊丹は押さえつけていた呪符越しに力を感じていた。
あれはどう考えても一人ではない、複数の恨み辛みが何重にも折り重なり合っていた。
一体”彼ら”は、どうして、このようなことをしたのか。
「アレが”良からぬ者”で間違いなさそうですね。…残念ながら、完全に仕留めることは出来ませんでしたが…。」
幻洛の心を弄んだ下衆な怪異を逃してしまったという結果に、伊丹は悔しい気持ちでいっぱいだった。
そんな伊丹を宥めるように、幻洛はフッと笑った。
「で、あれば、あまりうかうかとしていられないな…。」
幻洛は笑っていたが、その表情は少しばかり曇っていた。
今度はどのような形で対峙するかわからない。
一刻も早く、次のヤツの手がかりを掴まなければ。
「伊丹殿!幻洛殿!」
二人の前に、帝の使者が駆け寄ってきた。
そして突然、目の前で深々と跪いた。
「先の件、とんだ無礼を働いたこと、心よりお詫び致すッ…!」
使者は地面に頭がつくほど身を屈め、幻洛と伊丹に深く謝罪した。
そんな使者の姿に、伊丹は小さく溜息をついた。
「…過ぎたことです。それより、皆さんご無事で何よりです。」
伊丹は皆の無事に安堵し笑顔を見せるも、心の内は穏やかではなかった。
たとえ操られた帝の命だったとはいえ、侮辱した事実を消すことはできない。
その被害を受けた者は、一生の記憶として残り続ける。
まるでひとつの呪いのように。
幻洛もまた、使者の言葉に返事をすることはなかった。
「…帰りましょうか、幻洛さん…。」
長くこの場に残る義理はない。
そう思い、伊丹は幻洛にそっと身を寄せた。
「ああ、そうだな…。」
幻洛も寄り添う伊丹の腰に手を回し、共に万華鏡神社へ足を進めた。
おそらく、これから本当の試練を迎えることになるのだろう。
察知能力の高い幻洛は、静かにそう思っていた。