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其ノ拾陸、夢

その日、幻洛はいつものように村の巡回に出ていた。

辺りは既に暗闇に覆われ、しんと静まり返っていた。


嗚呼、早く帰らねば。


ふと、暗闇の先に、背を向けて立ち尽くしている見慣れた者の姿があった。

「…伊丹…?」

柳緑色の長髪に、ピンとそびえ立つ狐耳。

それは紛れもなく伊丹だった。


「おい、伊丹…?」

幻洛は呼びかけるも、伊丹は一向に振り向かない。


何か、様子がおかしい。


背を向けたままの伊丹に近づくと、幻洛はその肩に触れた。

「お前、こんなところで何を…、」


触れた肩は、氷のように冷たかった。


振り向いたその顔は、赤黒く痣のようなものに覆い尽くされていた。



呪いに、完全侵食された、…、




「…ア"、ア"ア"、縺ゅ>縺励※繧九£繧薙i縺上&繧薙、ア"…、」




身体が動かない




息が出来ない





救えなかった






伊丹の事を、救うことがーーーーー








「ッ…!!」

夜明けまでにはまだ早い、薄暗い空に染まった寅一つ刻。


此処は伊丹の部屋。

そして傍らですやすやと眠るのは、紛れもなく最愛の伴侶、伊丹だ。


「は…、夢、か…。」

心臓の音がドクドクと身体中に鳴り響く。

全身は酷く冷や汗をかいていた。


嫌な夢だった。

目を瞑れば、再びその光景が脳裏で蘇りそうになる程だ。

あの変わり果てた姿が伊丹など、ありえない。


幻洛は自ら見た夢に気分を悪くしていた。


「ん…、」

「!」

するり、と傍らで眠る伊丹が小さく身動ぐ。

伊丹は寝心地が良さそうに、幻洛の浴衣の裾をキュッと掴んでいた。


その身体には、先の情事の際につけた所有の痕が点々と散りばめられていた。


「…伊丹…。」

幸せそうに眠る伊丹に、幻洛は心が押し潰されそうだった。


まさか、伊丹が迎える結末があの夢のような有様など…、

「っ…」

幻洛はそれ以上の事を考えず、独り静かに涙を溢した。


過去、冷遇されてきたときに流した涙とは違う。

今流れているこの涙は、眼の奥が痛くなるほど辛かった。


「…んん、…げんらく…さん…」

「!」

伊丹は小さく寝言を呟いた。

その声が、暗闇に覆われた幻洛の心を浄化する。


まだ、その結末を迎えると決まったわけではない。


「伊丹…。」

幻洛は眠る伊丹に覆いかぶさると、その白く柔らかな頬に口付けた。

まるで壊れ物を扱うように。


「…俺は必ず、お前を救ってみせる…。絶対に、諦めないからな…。」

噛み締めるように、幻洛は眠る伊丹に呟く。


目尻に溜まった涙が頬を伝い、一雫、宝石のように伊丹へと降り注いだ。


………


「ん…。」

ふわり、と、頬を伝う感覚に幻洛は重い瞼を開ける。

そこには、優しく笑みを向けながら見下ろす伊丹が居た。

「…おはようございます、幻洛さん。」

「!」

頬を撫でられるその感覚は、伊丹の細長く綺麗な指先だった。


おそらく卯二つ刻だろうか。

寝室の窓から見える空は、夜明け前の薄明かりに包まれていた。


「ふふ、今日は僕の方が早起きでしたね。」

いつかの時の返しのように、伊丹は幻洛の寝顔を満喫していたようだ。


その女神のように美しい笑顔を向ける者は、間違いなく伊丹だ。


「…。」

幻洛は暫くの間、無言のまま伊丹を見つめ返した。


先に見た悪夢が、鮮明に、じわりじわりと幻洛の脳裏を支配し始める。


「幻洛さん、大丈夫ですか…?」

そんなことも知ってか知らずか、伊丹はいつになく黙り込む幻洛を不思議そうに見ていた。


「…ッ」

「わ…!」

突然、腰に抱きついてきた幻洛に伊丹は驚愕した。

伊丹の細い腰を、幻洛の太く逞しい腕が不安そうに巻き付く。


伊丹は驚きながらも、伏せたままの幻洛の頭にソッと手を触れた。

「あ、の…?」

「…すまない、伊丹…。」

消え入りそうな声で、幻洛は詫言を述べた。

伊丹は状況を理解できず、頭に疑問文を浮かべて首を傾げた。


「…夢を見た…。お前を失う夢を…。」

「…。」

ポツリ、と呟かれる幻洛の言葉に、伊丹は少しだけ息を詰まらせた。

だが、特段驚くこともせず、ただ静かに、幻洛をじっと見下ろした。


幻洛は夢の内容を少しずつ伊丹に呟いた。


地獄のような暗闇に包まれた万華鏡村。

氷のように冷たかった伊丹の身体。

そして、こちらを振り向いた伊丹はーーーーー


思い返し、自らの口から語ることすら苦痛だった幻洛は、その先を伊丹に話すことをしなかった。


「…それは怖い夢を見ましたね…。」

伊丹は赤子をあやすように、優しく幻洛の頭を撫でる。


元々、幻洛の閉ざされた本心は脆く、とても弱いものだ。

過去の忌々しい出来事が、彼の心をここまで追い込んでしまったのだ。

それなのに、そうとは思わせないほど、伊丹を守ると強く誓った幻洛。


本当は、伊丹を失うのが怖くて怖くて堪らないというのに。


彼がここまで落ち込むのは、おそらく、相当辛く苦しい夢だったのだろう、と伊丹は察した。

「でも、夢は夢なんですから。…ほら、ちゃんと僕はここに居るでしょう?」

伊丹は幻洛を元気づける。

しかし、幻洛は未だ悪夢が脳裏を過っているのか無言のままだった。


依然として伏せたままの幻洛に、伊丹はおかしそうにフフッと笑った。


「…本当に、昨晩の獣のような幻洛さんは何処へやら、ですね。」

「…。」

紺色の長髪を指に絡ませながら軽く弄ぶ伊丹に、幻洛はようやく、ムクリと顔を上げた。

随分と久しぶりに見た気がするその金眼は、不安と悔しさで揺らぎ、目元は少しばかり腫れていた。


険しい表情のままである幻洛の眉間を、伊丹は皺にならないように指先で優しく撫でた。

「…僕は幻洛さんの伴侶です。この先、幻洛さんの元を離れるなんてありえません。」

伊丹の背にある障子戸が、ゆっくりと、着実に、朝の光に染まり始める。


薄暗がりの寝室が、二人の存在を包み込むように明るさを取り戻していく。


「僕の居場所は、幻洛さんの居場所なんです。故に、幻洛さんの居場所が、僕の居場所になるんです。」

伊丹は幻洛の金眼をしっかりと見つめていた。

その言葉はとても優しく、しかし、見えぬ誰かに伝えるように強い力が込められていた。


「幻洛さんが居ない世界なんて、僕には必要ありませんから。」


何かを嘲笑うように、伊丹は小さく呟く。


幻洛さんの居ない世界なんて、必要ない。

そんな世界、僕が、僕の意思で壊してもいいくらいだ。

僕の大切な人の心を弄ぶ愚か者は、誰であっても許さない。


たとえそれが"夢"と称される朧な対象であっても。


伊丹は溜め込んだ息を静かに吐いた。

少しだけ、寝室の空気が軽くなったような気がした。


まるで、幻洛の見た悪夢を追い払うように。


「…心から愛していますよ、幻洛さん。…僕の、大切な、旦那様…。」

「!」

伊丹は少し恥ずかしそうにしながらも、幻洛の頭を抱き寄せた。

この愛おしい者から離れたくないと言わんばかりに。


応えるように幻洛も身を起こすと、伊丹の頬に手を当てながらその唇を優しく奪った。

「伊丹…」

「ん…っ」

ぬる…、と幻洛の熱い舌が入り込み、伊丹は肩を震わせた。

昨晩の情交の火種が残っていた伊丹は、幻洛に身を寄せながら、遠慮がちに自らの舌を絡ませた。


ちゅっ、ちゅく…、と、互いが互いの舌を奪い合う。


伊丹は苦しくなり、幻洛の唇から顔を離すも、銀色に輝く唾液が互いを繋いでいた。

逃さないと言わんばかりに、幻洛は伊丹の顔を向けさせ、艶めくその唇を優しく吸った。


狐耳を下げ、頬を赤く染めながら、熱く息を荒げる伊丹の姿。

幻洛はたまらず抱き寄せ、伊丹の浴衣を剥ぎながら情交の痕が残る首筋に噛みついた。


「あっ、…もう、朝から、は…、」

昨晩交わったばかりであるにも関わらず、無かったかのように幻洛は雄の滾りを取り戻す。

伊丹はその厚い胸板を弱々しく押し返しながら、困ったように小さく抵抗した。


「…今日は忙しくないんだろ?」

「それは、そうですが…」

幻洛は伊丹の首筋を食みながら、するりと浴衣を脱がしていく。

雄々しくも綺麗な幻洛の指に肌をなぞられ、伊丹はビクッと身体を震わせた。


伊丹は首筋を優しく掴まれ、幻洛と視線を交じ合えた。


サラリと流れる前髪から、光る金眼が伊丹を捕らえる。


普段前髪で隠れている幻洛の右目は、左目と同じく黄金に輝いていた。


「伊丹、俺もお前を愛してる。大好きだ。…今、心からお前を抱きたい。」

「!」

真っ直ぐ向けられる幻洛の男気溢れる想いに、伊丹はドッと身体の熱が上がるのを感じた。

錯乱する気持ちを抑えながら、伊丹は恥ずかしそうに頬を染める。

その尻尾は、嬉しそうにゆらゆらと揺れていた。


「…ふふ、全くもう。…僕の旦那様は甘えん坊さんですね…。」

「ッ…」

その言葉に、幻洛はゾクッとした感覚と湧き上がる欲望を感じた。


そんな幻洛をよそに、伊丹はゆるりと視線を向け、遠慮がちに幻洛の肩口に唇をやった。

「!!」

そのまま、幻洛の所有の痕を真似るように、伊丹も薄く痕を残した。


「ん…、幻洛さんも、僕のものなんですから…。」

「…伊丹…ッ」

プツンと理性を失う感覚に、幻洛はたまらなく、深く伊丹に口付けをする。


幻洛は口付けをしながら伊丹を抱き寄せ、力強くその腕の中に閉じ込めた。

伊丹もまた、幻洛を追い求めるかのように、その広く逞しい背に腕を回した。


フッと唇が離れ、黄金に輝く眼と深海のような蒼い眼は互いを見つめ合った。


「…伊丹、愛している。」

「…僕も愛しています、幻洛さん…。」

朝の光が照らす中、二人は再び本能のまま愛し合った。


昨晩と同じくらい激しく、昨晩よりも甘く、互いの身体を深く重ねた。


張り詰めた幻洛の欲望が中で弾けた時、伊丹はまた、自身の内にある暗く重い何かが砕け散ったような気がした。


暗闇で自身を縛り付ける錆びついた鎖が、一つ一つ壊れて解放されていくような感覚だった。


これは、一体何なのだろうか。


その真実を知る日がそう遠くないことを、伊丹はまだ知らなかった。

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