時が流れたある日の朝。
「おはよう…。」
眩い朝陽が屋敷を照らす中、万華鏡神社の巫女、ふゆはは朝食をとるため茶の間へと姿を現した。
「おはようございます、ふゆはさん。」
「ふゆはちゃん。おはよう。」
自らの師であり、親代わりでもある万華鏡神社の神主、伊丹。
そして、この屋敷の家事を仕事としている劔咲の声に続き、万華鏡神社の警護を務める幻洛、ナギ、裂からも朝の挨拶が交わされる。
「今日はふゆはが最下位だな。」
「…別に競っているつもりは無いのだけれど。」
朝食のおかずである焼き魚を食べながらニヤニヤと茶化す幻洛に、ふゆはは興味関心が無いように答えながら隣に座る。
「…そういう幻洛も今来たばかりだがな…。」
ナギは先に朝食を終え、相変わらず無表情のまま茶碗の上に箸を置く。
その食後の器は、米粒一つ残っていないほど綺麗に完食されていた。
「…おいナギ、そういう余計な事は言うな。」
事実を公にされた幻洛は、居心地が悪そうにギリリと歯を鳴らすも、ナギは流すように無言のまま食器を片付けていた。
「フッ…事実だろう?今日は素直に寝坊したと認めるんだな、幻洛。」
そう言う裂も既に朝食を終え、自らの食器を片していた。
相変わらず夜間の巡回任務をこなす裂は、徹夜明けのためか眠そうに控えめなあくびをした。
「…ふゆはさん、今日、僕は申の刻から外出します。この村の南東にある新しい養成所に、祈祷しに行かねばなりませんので。」
「そう、わかったわ。気をつけてね…。」
傍らでゆっくりと緑茶を飲む伊丹の言葉に、ふゆはは焼き魚の身をほぐしながら潔く承諾する。
伊丹が外出すると聞き、実際ふゆはは少しばかり心細さを感じていた。
しかし、万華鏡神社には彼の力と繋がった式神たちが同じように働いている。
たとえ留守中でも伊丹の仕事を少しでも手伝えるように、ふゆはは今日も意気込んだ。
「ああ、あの南東にできた施設か。申の刻なら、俺もその辺に居るから会えるだろうな。」
ナギ、裂に一足遅れ、ようやく朝食を終えた幻洛は自身の湯呑みをトンと卓袱台に置く。
その言葉に、伊丹はやれやれといった表情で食事を進める。
「…別に幻洛さんは気にせず巡回をしてもらって構わないのですが。」
「そう言うな。あの周辺には美味い甘味処があるんだ。…たまには奢ってやる。」
「…。」
情熱的な視線で伊丹を見つめる幻洛。
その隣で、”甘味処”という単語に反応したのか、じっとりと恨めしそうに見つめる視線が一つ。
その視線は紛れもなくふゆはであった。
「もし立ち寄ったら、ふゆはさんたちの分も買って帰りますよ。幻洛さんの奢りで。」
「!」
伊丹の言葉に、ふゆははまるで蕾が開いた花を見たときのような喜びの表情を見せた。
決してぬか喜びはしないが、愛弟子の静かな喜び方が、伊丹はとても愛おしかった。
「さすが幻洛、太っ腹だな。」
そんなふゆはとは違い、わかりやすい喜びを表現する劔咲。
そんな彼女の両手には、片付け途中の食器が積み重なっていた。
「…全員分かよ…。」
突然大きくなってしまった出費に、幻洛は満腹の胃袋とは対照的な懐の薄さを感じていた。
………
申の刻。
少しばかり陽が傾きはじめた頃、予定通り養成所の祈祷を終えた伊丹は、屋敷に戻るため竹林を歩いていた。
普段はあまり通らない道だが、この竹林を通った方が少しばかり近道になるのだ。
「…そういえば…。」
幻洛とツガイの契りを結ぶ前、似たような用件の帰りに、似たような竹林を歩いていた。
その際、呪いの影響で吐血したことを思い出す。
当時は、いよいよ覚悟を決めなければならないと思っていた。
しかし、ここ最近は吐血をしていない上に、呪いによる身体の重さすらあまり感じておらず、非常に心が軽やかだった。
「偶然調子が良いのか、何なのか…。」
幻洛のツガイとなり、一度だけ身体を重ねた。
それ以外に変わったことは無かった。
ーーー逆に、それくらいしか変わったことが無かった。
まさか、そんな事が影響しているなどーーー
「ええい!離せ!離さぬかこの変態!」
「!?」
突然、ただ事ならぬ叫びが聞こえ、伊丹は足を止めた。
「ククッ…久しぶりに会えたというのに、相変わらず付き合いの悪いヤツだな…カミツギ…。」
騒ぎの方に駆けつけると、そこには白い頭巾を深々と被った男が、長髪の男を捕らえていた。
「…素直に俺にバラされれば楽になるというのにな…。」
「それが嫌じゃと毎回言っておろう!!」
二本の角が生えた淡い浅葱色の長髪と、この古風な口調。
伊丹は捕らわれている者を知っていた。
純血の麒麟である古書店の店主だ。
「何をしているのですか!やめなさい!」
物々しい雰囲気に、伊丹は凛と声を張り上げる。
「か、神主殿!」
「…ん?カミツギの知り合いか…?」
カミツギ、と称される古書店の店主は、伊丹を見つけると唯一の救いのような目線で訴えてきた。
その背後で、カミツギを捕らえる白髪の男が紅桔梗色の目をギラリと光らせる。
「…ああ、お前は確か…、万華鏡神社の伊丹、か…。ある程度の情報は知っていたが、まさかこうして会えるとはな…ククッ…。」
白髪の男は、まるで首が座っていないかのようにグラリと頭を傾ける。
そして、蛇が睨むようなその視線に、伊丹は本能的にゾッと背を凍らせた。
「うぅ…神主殿…。」
腕を後ろ手で捕まれ、逃げる事ができないカミツギは、泣きそうな顔で伊丹を見つめた。
途端に、白髪の男がグイッとカミツギを引き寄せる。
「…ああ、その絶望に満ちた顔…堪らないな…。その顔が見たかった…。やはりお前は最高の麒麟だな、カミツギ…。」
「ひっ…!」
耳元でねっとりと囁きながら顎を撫でられ、カミツギは思わず情けない悲鳴を上げてしまう。
色々な意味でよろしくない状況に、伊丹は再び一喝する。
「その方を放しなさい。聞けないならば、手荒な真似をさせていただきますよ。」
伊丹は懐から呪符を取り出し、厳格な警告を流した。
その警告を面白がるように、白髪の男は首の座らない頭を傾けながら静かに笑う。
「…ククッ、随分と気の強い神主殿だ…。まあいい、俺は争い事が嫌いだからなあ…。」
「わっ!」
突然、捕らわれていたカミツギが伊丹の前に突き放される。
伊丹はカミツギをなんとか受け止めると、そのまま庇うように後ろへ匿った。
カミツギも、二度と捕まりたくないといった様相で後ろから伊丹の狩衣をキュッと掴む。
伊丹は警戒を緩めず、この白髪の男を名乗らせた。
「貴方、は…?」
「…ほう、この万華鏡村に居ながらも俺を知らないのか…。まあいい、俺の事を知ろうが知るまいが、どちらでも良いことだ…。」
面白そうに、赤桔梗色の蛇のような目がギラリと光る。
否、彼の左目は蛇そのもので、更に左半身は鱗がビッシリと生えていた。
「…嶽心、純血の妖蛇だ…。困った者の為に、ここで”救いの手”を差し伸べている…ククッ…。」
「…要は、ヤツは劇物を扱う薬屋で、医術者でもある者じゃ…。」
伊丹の後ろに隠れているカミツギが、ボソッと付け加える。
純血の妖蛇…嶽心…劇物を扱う薬屋…。
村一番の医術を持ち、薬剤の知識も右に出る者はいないと言われている者。
些か、その性格は難ありのように思えるが。
「…ああ、そうか…、伊丹とやらは純血の妖狐だったな…。確か…、お前にくっついている紫頭の小娘も、だろう…?」
「!!」
名は出さずとも、おそらくふゆはの事だろう。
そう思い、伊丹は本気で敵意を示す。
「僕の愛娘に近づくことだけは許しませんよ。」
「フッ…安心しろ…あのような小娘に興はない…。」
嶽心は戯れのように、その場をゆらりゆらりと歩く。
相変わらず、首が座っていないかのように頭が揺れ動き、舐めるような視線でジロリと伊丹を睨みつける。
「…純血であれ、妖狐などありふれた種族はバラし飽きた…。…だが、」
「!!」
突然、獲物を捕らえる蛇のような素早い動きで嶽心が迫り来る。
予想しなかったその行動力の速さに対処が出来なかった伊丹は、ドカッ、と鈍い音と共に上半身だけ荷台に押し倒される。
「か、神主殿っ…!」
突然の出来事に、その場に居たカミツギはただ慌てふためいた。
「だが伊丹、お前はどうなんだ?」
これまでとは違う、ハッキリとした口調で嶽心は問いかけた。
ひんやりとした手が、伊丹の両腕を一纏めにして掴む。
まさに蛇が締め上げるような強い力に、伊丹は動くことも出来ず、手首の血流がじわじわと悪くなるのを感じていた。
「…その包帯の下にあるもの…実に興味深いな…。」
何かを察するように、嶽心は伊丹の身体を舐めるように見下ろす。
この状況に、伊丹の中で不快感を伴った怒りが込み上げる。
「何のことを仰っているのか理解できませんね。」
「…そうか。ならば理解してもらわんとなあ…。」
ねっとりとした声で、嶽心は空いた手で伊丹の首に巻かれている包帯に手をかける。
「ッ…!!」
首ごと毟るような指の力に、伊丹は息を詰まらせた。
間近に迫る嶽心の白髪が、組み敷かれた伊丹の顔を擽る。
「なっ…!やめてくれ!!嶽心!!」
非力なカミツギはどうすることも出来ず、ただ必死に静止を求める。
そんなカミツギを尻目に、嶽心は伊丹を捕らえる力をじわじわと強めていった。
「…なあ、伊丹…。その身体、俺に預けてみるといい。…お前の”ソレ”も、すぐに解決してやれるやもしれ…、!」
「!!」
突然、雷のような轟きと共に目の前にいた嶽心が弾き飛ばされる。
舞い上がる土と砂埃から見える、紺桔梗色の長髪。
黒い服が靡くその大きな背は、とてつもない怒りで満ち溢れていた。
「…!幻洛、さ…!」
愛しい者の名を呼ぶ伊丹の声は、押さえつけられていた影響で掠れていた。
「はあ、やれやれ…、今日は随分と賑やかいものだ…。賑やかなのは嫌いだ…。」
大袈裟な程に大きな溜息をつく嶽心は、いつの間にか幻洛に胸倉を掴み上げられていた。
「殺されたいのか、貴様。」
「!」
殺気に満ち溢れた幻洛の声。
その言葉に反応するように、カミツギはハッと顔面蒼白になる。
「クッハハッ!今度は万華鏡神社の旦那のお出まし、か…。」
嶽心は幻洛に胸倉を掴み上げられながらも、恐怖心など感じていないかのように受け流していた。
まるで小馬鹿にするように、嶽心は笑みを浮かべながらジロリと幻洛を睨みつける。
「…しかし聞き捨てらなんなあ…。警護隊である者が、”まだ”何もしていない無垢な村民に殺意を向けるなど…。」
「俺は今、警護隊として言っているわけではない。俺個人として言っている。」
嶽心の睨みにも、幻洛は一切動じなかった。
伊丹が、自らの伴侶が、自分以外の者に組み敷かれ、襲われかけていた。
その光景に幻洛の中で眠る闘争心が轟き、戸惑いも、恐怖も、過去に負った心の傷も、幻洛の行動を邪魔する思考は全て無と化していた。
「これ以上戯言で俺の怒りを買うならば、何もできないように骨の一本折らせてもらうぞ。」
幻洛は胸倉を掴み上げる片手に一層の力を込める。
そのもう片方の手には、幻洛が巡回の際に持ち歩いている得意武器の薙刀がギラリと刃を輝かせていた。
それでも、嶽心は依然として関心が無いかのように、ただ無表情のまま幻洛を見下ろしていた。
「…ま、待ってくれ!幻洛殿!」
「!?」
突然、カミツギが制止を求める声に、幻洛と伊丹は振り返る。
「が、嶽心に危害を加えないでおくれ…。」
勇気を振り絞るように、カミツギは自身の服の袖をギュッと掴みながら幻洛に悲願した。
あからさまな危険人物を庇うカミツギに、幻洛は頭に疑問符を浮かべる。
「…お前、」
「理由は後ほど話す!だから、頼む…!」
カミツギは深々と頭を下げ、必死に許しを得ようとしていた。
「…ククッ…いい子だなあ、カミツギ…。流石は純血の麒麟だ…。」
嶽心は相変わらず胸倉を掴み上げられながら、ニヤニヤとカミツギの言葉を称賛した。
「チッ」
不服そうに舌打ちをしながらも、幻洛は突き放すように嶽心を解放する。
嶽心は掴まれていた襟元も直さず、面白そうに幻洛をジロリと睨む。
「フッ…幻洛…覚の血…それと、送り狼の血の臭いがするな…。」
「…!」
その言葉に、幻洛は酷く動揺した。
そして、おそらく今の言葉は伊丹も聞いていたはずだ。
そう思い、幻洛は生唾を飲み込む。
送り狼。
気に入った者に親切な振る舞いをしつつ、内心ではその者に乱暴しようと企むアヤカシの一種。
しかし、その一方で深い愛情も持っており、生涯の番いとなった者に対してはその者のみを一生愛し続け、自らの命に代えてでも懸命に守り抜く習性があるとも言われている。
幻洛の、他者よりも早く伸びる青い爪も、送り狼の名残によるものだった。
「ああ、それに貴様、は、………!」
愉快そうな顔から一変、嶽心は目を見開き、神妙な面持ちで黙り込んだ。
覚の血、送り狼の血、そして残りの血の気配に、これまで感じたことのない、圧倒的な威圧感。
嶽心は初めて、ゾッと身震いした。
それは絶望であり希望でもある、形容することができない存在の血。
嶽心は目を細め、幻洛を見据える。
そして、今感じている気配を悟られぬよう、嶽心は静かにフッと笑った。
「…しかしまあ残念だ…、俺は貴様のような雑種(混血)には微塵も興味が無い…。純血であれば良かったのだがなあ…。」
「ッ…!」
まるで価値が無い者のような言い草に、幻洛は再び襲いかかろうと牙を剥く。
見兼ねた伊丹は幻洛の肩を優しく触れ、これ以上の衝突を回避するよう努める。
「…幻洛さん、もう行きましょう。ほら、カミツギさんも。」
伊丹は幻洛を優しく引き離し、カミツギの手を引きながら足早にその場から去ろうとしていた。
「…ああ、一つ忠告しておこう。…否、警告、と言った方が良いか…。」
嶽心は先程まで伊丹を押し倒していた荷台の上に座り、まるで大きな独り言のように空を仰ぎながら呟いた。
「…この村に、良からぬ者が紛れ込んだ。…どうやら誰かに身を移して潜伏しているようだが…。」
その言葉に、幻洛たちはピタリと足を止める。
良からぬ者。
それは以前、劔咲と裂が遭遇したという怪異と同じものを指しているのだろうか。
そして、この嶽心もまた、その怪異を万華鏡村のどこかで見たということなのだろうか。
見えぬ不安を警戒するように、幻洛と伊丹は互いに目を合わせていた。
「…まあ、せいぜい寝首でも掻かかれんよう気をつけておくことだな…ククッ…。」
他人事のように、嶽心は家屋に戻ろうとする。
「良からぬ者などお主のことじゃろ…。」
相変わらず伊丹の背に隠れているカミツギは、うんざりした様子でボソッと呟く。
「ん〜?何だ〜カミツギ〜?バラしてやろうか〜?」
「ひっ…!」
突然、ぐるりと振り返り紅桔梗色の蛇目をギラリと光らせる嶽心に、カミツギはわかりやすいほど体を震わせた。
嶽心の距離までは聞こえるような声量ではないと思っていたため、カミツギはその場で固まってしまった。
そんな固まったカミツギを、幻洛と伊丹は両脇を抱えながら強制的に連れ去っていった。
遠くなるカミツギたちの背を眺めながら、嶽心はひっそりと笑う。
「…フッ、だいぶ良くなっているな…。いずれはカミツギも、…俺の元に来なくなるのだろう…。」
嶽心にとってカミツギとは、一番からかい甲斐のあるただの獲物に過ぎないが、あくまで自らの力を必要としている患者なのだ。
「…それにしても、な…。」
嶽心は幻洛の血を思い返していた。
おそらく純血と対面したら、どのような地位の者でも跪くであろう絶対的な存在。
…あいつは、”自分”が何者なのか、理解していないのだろうか…。
もしも幻洛が”自分”の存在に気付いた時、この村の未来は…。
「…フッ」
嶽心は薄ら笑いしながら、自らの家へと戻っていった。
あの伊丹という片割れ次第では、幻洛が自分の存在に目覚める日も、そう遠くはないのだろう。
そう思いながら。
………
嶽心のもとを離れ、幻洛と伊丹は、カミツギが営む古書店まで戻ってきた。
「…巻き込んでしまってすまなかった、神ぬ…、否、伊丹殿、それと幻洛殿。」
申し訳なさそうに頭を下げるカミツギに、幻洛はため息混じりに詰め寄った。
「ヤツを庇う理由を聞かせてもらうぞ。」
「勿論じゃ…。」
カミツギは服を緩め、片腕を晒す。
「!?」
その光景に、幻洛と伊丹は互いに言葉を詰まらせる。
そこには、青黒い二重丸の斑点模様がいくつも散らばっていた。
「…この通り、儂は病を患っておる。」
身体を這う痣というものに、伊丹は自らの呪いを連想し顔を顰める。
「これが麒麟の病、…なのですか?」
「うむ、いわゆる血行不良の類いじゃ。よく貧血を起こしてしまってな、困ったものよ…。」
自らの力ではどうすることも出来ない現状に、カミツギは苦笑いをした。
「これまで数多くの医術者に診せてきたのじゃが…。いかんせん、儂のような純血麒麟を診れるのは、万華鏡村でも村外でも、アイツしかおらんのじゃ…。」
麒麟は非常に珍しい種族で、混血でさえ数が少ないと言われている。
その純血の麒麟であるカミツギは、今回のような病にかかった場合、診れる者の数が限られてしまうため肩身の狭い思いをしてきた。
「嶽心のお陰で、やっと症状が改善されてきたのじゃ。…否、ヤツの研究材料として解剖されてきた者たちの命のお陰とも言うべきか…。」
「…だからアイツを庇ったのか…。」
幻洛はカミツギの話を聞きながら、静かに呟いた。
嶽心が伊丹を襲おうとしていた事実は拭いきれない。
しかし、このカミツギにとっては、唯一自分の病を診てもらうことが出来る希望の光なのだ。
その大切な者に万が一のことがあれば、確実にカミツギも影響を受ける事になる。
罪の無い村民まで犠牲にすることは出来ず、今回はあくまで未遂で済んだこともあり、幻洛はなんとか自らを納得させていた。
晒していた片腕をしまうカミツギに、伊丹は恐る恐る尋ねた。
「毎回、ああやって捕まっているのですか?」
「うむ…。奴は純血のアヤカシを解剖する事が好きでな…。じゃが、きちんと拒否を示せば、奴は解放してくれるのじゃ。時間はかかるが…。」
カミツギは嶽心に捕まっていても、伊丹に助けの言葉はかけていなかった。
『困った者へ救いの手を差し伸べている。』
そう言っていた嶽心の言葉は、ある意味間違ってはいなかったようだ。
「此度は世話になった。」
改めて、別れ際にカミツギは頭を下げた。
先端のみ鮮やかな桃色に染まった長髪が、サラサラと風になびいていた。
カミツギは頭を上げ、邪のない心で微笑んだ。
「…伊丹殿も、早くその怪我が治ると良いな。」
「!!」
カミツギから発せられた何気ない一言に、伊丹は言葉を詰まらせ、傍らにいた幻洛もまた、冴えない表情で黙っていた。
カミツギは伊丹の呪いのことを知らない。
純粋に”怪我”として心配してくれているカミツギに、伊丹はそのまま頷いた。
「え、ええ…、そう、ですね…。カミツギさんも、お大事に…。」
歯切れの悪い返事をしながら、伊丹は幻洛と共にその場を後にした。
………
空が茜色に染まり始めた夕暮れ前。
カミツギと別れ、幻洛と伊丹は近くの甘味処を訪れていた。
そこは朝方、幻洛が勧めていたところだった。
「すごい…このような甘味処があるなど知りませんでした。」
陳列棚に並ぶ様々な菓子類に、伊丹は目を輝かせていた。
「だろ?…この和菓子とか、ふゆはが気に入りそうだな。」
「フフッ…確かに…。」
粋な装飾が施されたその和菓子は、確かにふゆはが好きそうなものだった。
ふゆはは和菓子のことになると日頃装っている冷静さが欠かれるため、伊丹は帰ったときの反応が今から楽しみで仕方がなかった。
「五…、六…、これで全員分だな。」
屋敷で待つ仲間たちの分を揃え、幻洛は会計に向かおうとする。
「幻洛さん、待ってください。」
「ん?」
突然、伊丹は幻洛の袖口を掴み静止させると、ゴソゴソと、自らの財布を懐から取り出した。
「僕がお支払いします。」
「そう気を使うな。伊丹を誘う前から俺が全て払うって決めていたんだ。」
「いえ、半分だけでも払わせてください。」
こればかりは譲れないと言わんばかりに、伊丹はズイと前に出る。
「…先の件で助けていただいた御礼くらい、したいんです…。」
「!」
皆がいる前では言いにくいので、と付け加える伊丹に、幻洛は胸が高鳴るのを感じていた。
「…どうせなら、もっと別の形でもいいんだがなあ…。」
緩ませた財布の紐と同じくらい緩んだ顔の幻洛に、伊丹は呆れたようにため息をつく。
「…今のは聞かなかったことにしますよ。」
ニヤニヤとしながら財布を取り出す幻洛の傍らで、伊丹はサッと代金の半分を出し、会計を進めていった。
………
会計を済ませた幻洛と伊丹は、甘味処の外にある縁台に座り、ひとときの休息を取っていた。
「…。」
嶽心やカミツギに言われたことを思い出し、伊丹は苦渋の表情を浮かべる。
「…僕のものは呪いであって、病や怪我とは違う…。治るなんて、そんな…」
伊丹は店側からもらった抹茶を手にしながらポツリと呟く。
その傍らには、屋敷で待つふゆはたちの手土産が風呂敷に包まれ置かれていた。
「ヤツの言葉を鵜呑みにするな。」
伊丹の隣に座る幻洛が注意を促す。
「あの嶽心とやらは、確かに腕のある医術者だろうが、呪いを扱える術者ではない。呪いの事も、救えるとも一切言っていない。伊丹の身体を興味本位で調べたいだけのハッタリだ。」
億の一で、可能性はあったかもしれない。
しかし、そんな不確かな情報を信じて伊丹を託すなど、幻洛はどうしても許すことが出来なかった。
「…あんなヤツに、俺の伊丹を差し出してたまるか…。」
「…。」
低く唸る幻洛に、伊丹はほんのりと頬を赤らめた。
「…幻洛さんは、送り狼の血も流れているのですね…。」
「…!」
やはり知られてしまったか。
そう思い、幻洛は少しだけ言葉を詰まらせた。
隠し事をするなど良くないものだとはわかっている。
その相手が最愛の伴侶であれば尚更だ。
「…黙っていてすまなかった…。」
幻洛は叱られてもいないのにしゅんと頭を下げる。
「俺は、身体の半分が覚の血が流れているが、…ヤツの言う通り、更にもう大半は送り狼の血が入っている…。残りの血族は俺自身もわからないんだが…。」
すなわち、幻洛の親のどちらかは純血の覚、どちらかは混血の送り狼のアヤカシとなる。
血族の関係で良い思い出の無い幻洛を気遣い、伊丹はそれ以上のことは聞かなかった。
「…伊丹を独占し、俺のものにしたいという強欲も、やはり送り狼の血が影響していると思うと…なかなか言い出せなくてな…。そもそも、そんな血が混じっていることも、今更思い出したくなくてな…。」
言い訳になってすまない、と幻洛は気まずそうに再び謝る。
「そんな事、気にしていませんよ。たとえどんな血族が入り混じっていても、幻洛さんは幻洛さんです。…僕の想いに変わりなんてありません…。」
落ち込む幻洛を宥めるように、伊丹はふわりと笑みを向ける。
「それに…、」
少しばかり恥ずかしそうに、伊丹は顔をそらす。
「…僕だって幻洛さんを独占したい欲望くらいあります…。」
「!!」
思いもしなかった言葉に、幻洛は目を点にする。
「そうか…そう、か…。」
一瞬で心の臓が高鳴り、身体の体温が上がるのを実感する。
「…ダメだ、ニヤける…。」
「フフッ…。」
予想通りと言わんばかりの反応に、伊丹は面白おかしそうに笑う。
「…それにしても…、」
改まるように、伊丹は深刻そうな表情を浮かべた。
「彼が言っていた良からぬ怪異…、どうも引っかかる話ですね…。」
「…ああ、おそらく、前に裂と劔咲が話していた邪狂霊の事だろうな…。」
幻洛もまた同じく、真剣な面持ちで察していた。
遭遇した二人の話によると、その怪異は邪狂霊の見た目をしながらも、ハッキリとした自我があったという。
通常、邪狂霊は自我を持たず、生前の恨みや嫉みの記憶だけを頼りに襲いかかってくる。
その憎い思いが強いほど生前の姿を維持出来なくなり、奇形と化するのが特徴的な怪異だ。
それに加え、噂の邪狂霊は自我を持っていると言われている。
普通ではあり得ない。
良からぬ怪異、と称されてもおかしくはないのかもしれない。
「幻洛さん…。」
「ん?」
不安そうに、伊丹は隣に座る幻洛を見上げる。
二人だけのときに見せる伊丹の目線に、幻洛は再び胸が高鳴り、ゴクリと生唾を飲み込む。
「…本当に、巡回の際はお気をつけて…。勿論、ナギや裂さんにも同じように心配はしていますが…、幻洛さんに何かあったら…僕…、」
瞼を伏せながら、伊丹は己の拳をギュッと握りしめる。
その目元から生える長く綺麗な睫毛に、幻洛は思わず見蕩れてしまった。
「フッ…そう簡単にくたばるつもりはない。万が一のための打開策は可能な限り考えてある。…伊丹はいつも通り、気にせず自分の仕事をしていれば大丈夫だ。」
「…なら、良いのですが…。」
いつもの笑みを向ける幻洛に、伊丹は気休め程度だが心が軽くなる。
これまでに例のない怪異ということもあり、伊丹の不安は尽きることはない。
しかし、心配したところで特別な対処が出来るわけではなかった。
今は幻洛の言う通り、いつも通りの生活を送るのが無難と言えよう。
「さて、そろそろ帰るか。屋敷に着いたら土産の争奪戦になるだろうな。」
幻洛は薙刀を持ち直し、スッと縁台から立ち上がった。
「フフッ…争奪戦だなんて、そんな大人気ない方はいないでしょう。」
「俺は一人だけ心当たりがあるがな。」
和菓子に対する執着心が強い者。
それはおそらく、ふゆはの事だろう。
争奪とは言わずとも、真っ先に食いついてくる彼女の姿を想像し、伊丹は納得しながら幻洛の後をついていった。
突然、幻洛は歩みを止める。
「…なあ、伊丹…。」
「?」
一足遅れて伊丹も歩みを止めると、持っていた風呂敷を幻洛に奪われる。
伊丹は疑問符を浮かべ、首を傾げた。
「…今夜、また部屋に行っても良いか…?」
少し遠慮がちながらも、幻洛は伊丹の目をしっかりと見て伝えた。
今や伊丹の心を掴んで離さないその金眼は、夕陽を反射し幻想的に輝いていた。
「………構いませんよ。」
「!」
愛しい者に見つめられ、伊丹は恥ずかしさのあまり顔を背けるも、ゆっくりと間を開けて許諾する。
途端に、幻洛は嬉しそうな表情を見せる。
もしも彼に送り狼の尻尾があったら、それはもう勢いよく左右に振っていただろう。
「よし、そうと決まれば、尚更早く帰らないとな。」
自前の薙刀と、和菓子の入った風呂敷をそれぞれ持ち直すと、幻洛は勇み立ちながら歩みを再開した。
その後ろ姿にひっそりと笑いながら、伊丹も同じく足を進ませた。
「何でそんなに張り切っているのですか…。」
「ん?教えてやろうか?」
傍らで肩を並べると、幻洛はいつものようにニヤリと笑みを浮かべて寄り添ってきた。
伊丹も、このまま甘えてしまいたい気持ちをなんとか抑えながら、やんわりと幻洛の肩を小突く。
「おおよそ予想がつくので結構です。」
この想いは、帰るまでとっておこう。
そう思い、伊丹は愛しい者と共に歩みを進めていった。
背後から、誰かに手招きされているような感覚を抱きながら。