黄金に輝く朝の陽が、遠くの山々から姿を現わす。
「…ん。」
奏でるような鳥のさえずりに、幻洛は目を覚ました。
ほんのりとした墨の香りが漂う伊丹の部屋。
昨夜、伊丹とツガイの契りを結んだ。
そして、欲望に溺れるほど伊丹を抱いた。
「…伊丹…。」
隣でスヤスヤと眠る愛しい者に、幻洛は視線を落とす。
少々訳ありではあるものの、男とは思えないほど美人で綺麗な肌は、いつもより血色が良く見えた。
幻洛は愛おしそうに、伊丹の寝顔を見つめていた。
包帯によりしっかりと隠された伊丹の右目。
『目が合った者を、失明させてしまうんです。物理的に目を潰すように。』
伊丹はそう言っていた。
初めて他者を失明させてしまったとき、おそらく伊丹は相当の恐怖を感じたであろう。
そして自身を蝕む呪いの恐怖は、今も伊丹の心を支配し続けていることを、幻洛は覚の能力で知っていた。
何事も無いかのように日々を過ごす伊丹。
しかし、本当は呪いの恐怖に怯えながら生きているのだと想うと、幻洛は胸が押しつぶされそうだった。
伊丹は神社の神主、村の陰陽師、ふゆはの師で親代わりも務め、もはや重過ぎる程の役を担っている。
日々誰かの期待に応えなければならない立場に立たされれば、弱音を見せるなど容易には出来ないだろう。
はだけた布団から、伊丹の包帯に巻かれた裸体が見えた。
その色素の薄い素肌には、昨晩の情事の際に付けた所有の証が点々と散りばめられていた。
「…。」
ゴクリ、と幻洛の喉が鳴る。
結果的に理性を手放してしまい、雄の本能のまま伊丹を抱いた。
あれ程まで欲の感情が湧き上がるなど、幻洛自身思いもしなかった。
そしてようやく気づいた、伊丹への独占欲。
ツガイとなることで、”伊丹”という存在を自分に縛り付けた。
これ以上伊丹を占領するなど、あまりにも身勝手な事であるのはわかっている。
それでも、伊丹の心の一部を支配しているのは呪いへの恐怖心だと思うと、感情が抑えきれなかった。
今まで他者に本心を閉ざして生きてきた故、自分の想いがどこまで許されるのか、幻洛には分からなかった。
愛する者の全てを自分で満たしたいなど、やはり身勝手な思いなのだろうか。
「…無理をさせたよな…、すまない…。」
幻洛は静かに呟きながら、伊丹の包帯が巻かれた右頬を優しく撫でた。
その感覚に、伊丹は擽ったそうに身をよじらせる。
「んっ…」
重そうに左の瞼が開かれ、深海の色をした青い瞳が部屋に注がれる光を反射し、まるで宝石のように輝いていた。
「…げんらくさん…。」
掠れた声で、伊丹は今日の第一声を上げた。
幻洛はいつものように笑みを浮かべ、伊丹の包帯に巻かれた狐耳をそっと撫でた。
「ああ、おはよう、伊丹…。」
「んん…。」
おはようございます…、と返事をしながら寝ぼけ眼で幻洛を見つめ返す。
「…昨夜はがっついてすまなかった…。身体、痛むよな…?」
幻洛は取り急ぎ、昨夜の情事について詫びた。
生憎、過去の忌々しい記憶の中に性交と称される経験はあるものの、相手を労った上手い行いが出来るという自信は無かった。
それも本心から好いた者と事に及ぶなど初めてのことで、完全に気遣う余裕を失っていた。
「大丈夫ですよ、そんなにヤワじゃありません…。」
しゅんと反省する幻洛とは裏腹に、伊丹はクスッと笑みを浮かべた。
伊丹自身このような情事は勿論、誰かと恋に落ちることすら今まで無かった。
幻洛のやり方を気にすることなど勿論無く、むしろ”自分”を見てくれていたことに対し、伊丹は内心嬉しさを感じていた。
「…まあ、強いて言えば腰が悲鳴をあげていますが…。」
困ったような表情で、伊丹は半ば大袈裟に自身の腰回りをさすった。
「…!す、すまない…」
「フフッ…大丈夫ですって。」
焦りながら詫びる幻洛をからかうように、伊丹はクスクスと静かに笑った。
伊丹は愛おしそうに幻洛の頬を撫でる。
「幻洛さん、謝ってばかりで…、貴方の悪い癖ですね…。」
「…、すまな、…!」
「フフフ…、可愛い…。」
まるで狐につままれた伴侶の姿に、伊丹は面白そうに幻洛の頰を指でツンツンと突いた。
幻洛の純粋で素直な心が、伊丹には愛おしくて仕方がなかった。
「…あまり俺をからかうと朝っぱらでも襲うぞ…。」
「おやおや、それは大変困りますね…。」
まるで威嚇するように低く唸りながら覆い被さる幻洛に、伊丹は茶化すように答えた。
今日一日を二人きりで過ごせるならば構わない、と密かに思いながら。
幻洛はフッと笑いながら身を引いた。
「冗談だ。…俺が言うのもなんだが、今日は休めないのか…?」
この状況を作っておいてどの口が言うのだ、と幻洛は心の中で自虐した。
「…まあ、今は特別忙しくありませんが…。」
「なら、無理はするな。ふゆはには俺からも言っておいてやる。」
幻洛は自室に戻るため、昨夜脱ぎ捨てた浴衣を羽織ろうと手に取る。
その鍛え上げられた雄々しい身体を、伊丹はひっそりと眺めていた。
これまでの戦歴を表すように刻まれた、いくつもの消えない傷跡。
そして、昨晩の情事により小さな傷がついた逞しい背。
…あの身体に、昨夜、僕は…。
伊丹は気づかれないよう、布団の中から熱い眼差しを送った。
「…幻洛さんは、巡回に出るのですか…?」
「ああ。」
「無理していませんか…?」
「むしろ最高に調子が良いくらいだな。」
浴衣を羽織り、慣れた手つきで帯をきちんと締めた幻洛は、伊丹の方へ振り返りフッと笑みを向けた。
「…それは何より…。」
熱の上がる顔をなるべく見られないように、伊丹は布団を被った。
本当は一日中一緒に居たい。
しかし彼は村の治安を守るため、今日も巡回任務に出なくてはならない。
行かないでほしい、なんて女々しい事など言えるはずがない。
そもそもそんな事、言われても迷惑になるだけだ。
伊丹は複雑な心境の中、ギュッと布団を握った。
「…行ってくる。ゆっくり休めよ、伊丹。」
聞き慣れた重低音の声が、伊丹の鼓膜を振動させる。
幻洛は横になる伊丹に軽く覆い被さり、軽く喰むように頬へ口付けを落とした。
「ん…」
そのくすぐったい感覚に、伊丹は身体の熱が上がるのを感じた。
幻洛の出て行った襖が、トンと軽い音を立てて閉められる。
「…はあ、やれやれ…。」
甘い空気が残る自室で、伊丹はため息をついた。
「…。」
伊丹はぼんやりとした思考の中、昨夜の情事を思い出していた。
幻洛さんも、あんな風になるんだなあ…。
その姿は”雄”そのものだった。
怪異と対峙した時など、幻洛の真面目で雄々しい姿は何度か見てきたが、此度の交わりの際に見た表情は全くの別物だ。
自らを組み敷き、獲物を捕らえるような目で月の光を反射しながらギラつく欲を潜めた黄金の瞳。
絶対に逃さないと言わんばかりに押さえつける血管の浮いた太い腕。
そして、欲のまま勃ち上がりドクドクと脈打つ大きな雄。
己の理性を崩してしまうほど自分を求めてくる幻洛が、伊丹にとっては愛らしくて仕方がなかった。
初めての性交といえ、伊丹自身もあれ程まで乱されるとは思いもしなかった。
思考が、身体が、幻洛を求めて全てが支配されていた。
神主や陰陽師である矜持も、身体を蝕む呪いの恐怖心も、全てがどうでも良かった。
ただ本能のまま、幻洛を求めて身体が疼いていた。
それはただ快楽の意味ではなく、もっと別のーーー
「っ…!」
とろん、と下腹部から何かが溢れる感覚が伊丹を襲う。
「あ…」
昨夜、幻洛が中に出した雄の欲だった。
吐き出された直後の灼熱を失ってもなお、伊丹の中でその存在を主張していた。
溢れた幻洛の欲が、伊丹の太ももを伝いトロトロと流れていく。
「ん…幻洛さん…。」
その感覚に、伊丹の中で欲の火種が燻っていた。
流れていく彼の跡を少しでも留めていたく、伊丹は切ない表情でソッと秘所に指を添えた。
少しでも長く、彼に満たされている感覚を感じていたい為に。
………
「え?伊丹が?」
朝食を食べるために居間へ向かっていたふゆはは、すれ違いに会った幻洛より、伊丹の体調不良を知らされる。
「ああ、大したことはないそうだが、今日は大事をとって休むそうだ。」
「そう…。」
ふゆはは短く答える。
今や少し前の出来事だが伊丹失踪未遂の件もあり、その表情はいささか不安そうなものだった。
休まざるを得ない状況を作ったのは自分のせいなのだが。
心配そうなふゆはとは裏腹に、幻洛は内心苦笑いしていた。
「まあ、俺が見た限りは元気そうだったがな。心配なら見舞いくらい行ってやるといい。」
安心させるように、幻洛は落ち着いた口調で笑みを見せた。
「何かあったら、コイツに知らせてくれ。ふゆはも同じ術が使えるんだろ?」
幻洛は、普段常備している伊丹の護符を見せ付けた。
伊丹ほど強い力は使えないが、彼の弟子であるふゆはであれば、ある程度の術は真似ることが出来る。
「ええ、一応は…。」
何も無ければ良いのだけれど、そう思いながらふゆはは頷いた。
「じゃあな、行ってくる。」
幻洛はわしゃわしゃと、ふゆはの藤色の頭を優しく撫でる。
「行ってらっしゃい。」
雄々しい大きな手が頭から離れると、ふゆはは顔を上げて幻洛を見送った。
………
寝床周りを片付けながら、伊丹はフッと息を吐く。
「…。」
目が覚めていくにつれ、腰回りの鈍い痛みを実感していった。
しかし、何故だろうか。
心は不思議と晴れやかだった。
常々感じている、身体中に重くのしかかる感覚が、この日はとても軽かったのだ。
ふと、襖の向こうに小さな気配を感じた。
「伊丹…?」
幻洛とは別の意味で愛しい者の声に、伊丹は思わず頬が緩んだ。
「入って良いですよ、ふゆはさん。」
優しい返事をすると、するすると遠慮がちに部屋の襖が開かれる。
藤色の狐耳を不安そうに動かしながら、ふゆはは師の部屋に足を踏み入れた。
「大丈夫?具合が悪いって幻洛から聞いたから…。」
伊丹が座る布団の横にそっと座り、ふゆはは心配そうに顔を覗かせながら様子を伺った。
「心配させてしまってすみません。少し、疲れが出てしまったようで…。でも、大したことはありませんから大丈夫ですよ。」
伊丹はフッと笑みを見せる。
その柔らかな笑顔は失踪未遂をする前夜とはまるで別人のようで、ふゆははどこか懐かしさを感じ安堵した。
「…仕事を忘れて気兼ねなく休む…。たまには、こういうのも悪くありませんね…。」
「…!」
縁側越しに見える庭園を眺めながら、誰宛にでもなく伊丹はポツリと呟いた。
緩やかな風に靡く朝露に濡れた若葉が、陽の光を跳ね返しキラキラと輝いていた。
「フフッ…、すみません、ふゆはさん。貴方の師であるにも関わらず、この様な怠けを見せてしまって…。」
伊丹はふゆはに視線を戻し、少し気まずそうにはにかんだ。
「いいのよ。…それより、良かったわ…。」
その笑顔に釣られるように、ふゆはもようやく笑みを浮かべた。
「伊丹にもそういうところがあるって知って、なんだか安心したわ。」
伊丹はふゆはの師である者。
同時に、幼い頃に父を戦死、母を病死で失ったふゆはの親代わりでもある。
今や自慢の愛弟子であり愛娘同然でもあるふゆはを前に、伊丹は日頃から自分なりの威厳を保ってきた。
それはふゆはも分かっていたことだったが、このように純粋な師を見ることは今まで無かった。
ほんの少しだが、身近に感じる伊丹の存在に、ふゆはは心の中で大きな喜びを感じていた。
「…今度、滞っていた結界の術の鍛錬を再開しましょうか。」
「えっ…!」
宙に浮いていた気持ちが現実に引き戻され、ふゆはは間の抜けた声を零してしまった。
「時間は空いてしまいましたが、きちんと身に付いているか、見させてもらいたいですね。」
焦るふゆはの気持ちを見抜いているかのように、伊丹はニッコリと笑いかける。
「わ、わかったわ…。」
久しぶりのことに、ふゆはは今から緊張していた。
隙間を開けた窓辺から、そよ風がふわりと入り込む。
「ふゆはさんも、今日はゆっくりお休みください。」
伊丹は優しく声をかけた。
「僕だけ休んで、ふゆはさんにだけ仕事をしてもらうなんて出来ません。」
「でも…。」
「大丈夫です。元より、今は仕事も少ないですし、僕の式神たちで回せます。」
決してふゆはに任せられないわけではない。
ただ、ふゆはが大切だからこそ、愛弟子一人に仕事を任せるなど師としての矜持が許すはずがなかった。
「たまの休みです。せっかくなので、巡回の終わったナギと逢瀬を楽しむといいですよ。」
「…!」
ナギの話題を出されて、ふゆはは思わず胸が高鳴った。
ただ単に喜べば良いものの、情けなく頬を緩ませているところを見られたくないという性質ゆえ、上手い言葉が出てこなかった。
「…そういえば、今日はナギと裂が巡回時間を入れ替わっていると言っていたわ…。」
ふと、ふゆはは劔咲が言っていたことを思い出す。
理由は定かではないが、今日の二人は巡回時間を入れ替わっているそうで、昼の時間帯は裂が、夜の時間帯はナギが任務となっているようだ。
「そうなんですか?…では尚更、ナギとの時間を楽しむといいですよ。」
こんな機会、滅多にありませんし。
そう伊丹は付け加えると、優しい笑顔をふゆはに向けた。
頬を染めながら、ふゆはは小さな咳払いをする。
「…そ、そうね…。とりあえず、伊丹が元気そうで良かったわ…。」
「フフッ…。」
何事も無い幸せな日常。
そんな日が、この先ずっと続けば良いのに。
伊丹はそう心の中で願っていた。
………
辰の刻。
村の巡回に出ている幻洛は、開店前のシンとした商店街を歩いていた。
あと数時間もすれば、ここも祭りのような賑わいを見せる。
その姿を見られるのは、おそらく巡回の帰り道になるだろう。
煌々と昇る朝陽が、睡魔の残る目に突き刺さり、幻洛は眉間に皺を寄せた。
「…ああ、流石に少し眠気があるな…。」
伊丹と契りを結び、そのまま互いの身体も重ねた。
不思議なほど気分は晴れていたが、やはり寝不足であることに身体が訴えていた。
「…それにしても昨夜の伊丹、可愛かったな…。」
幻洛は一連の出来事を思い出しながら、一人で顔をニヤつかせていた。
側から見ればただの不審者だが、今はそんな事などどうでも良かったのだ。
…まさか伊丹から口付けをされるとは思ってもいなかった…。
ああ、思い出すだけで興奮する…。
その時、フッと背後から風を切る感覚が過った。
「!!」
禍々しい殺気と共に降りかかる黒い影に、幻洛は寸のところで振り向き、持ち前の薙刀で身を守った。
ギィン!と刃が交差する金属音が、早朝の澄んだ空に鳴り響く。
「チッ!この野郎ッ…ん?」
真っ黒な服に、深々と頭巾を被った男。
その力に、幻洛は覚えがあった。
「…何のつもりだ、裂。」
「それはこちらが言いたいところだな。」
裂はスッと力を緩めると、交えていた忍者刀を慣れた手つきで背負っている鞘に納めた。
被っていた頭巾をようやく外すと、呆れた表情の裂が顔を表し溜息をついた。
「…全く、上の空で歩いて…、怪異の襲撃だったらどうするつもりだ。」
「あー…」
幻洛は言葉を詰まらせた。
いかんせん、昨夜は伊丹とあのような事があったのだ。
上の空であったのは否定できない。
もはや思い出すだけで情けなく頬が緩んでしまう程だ。
幻洛はなんとか答えを絞り出す。
「まあ、なんだ、色々と考え込んでいただけだ。」
「はあ。」
信じているのか、いないのか。
裂は再び溜息をついた。
それ以上、裂は幻洛を問い詰めることはしなかった。
「…あまり無理はするなよ。ここのところ、連日で長距離巡回をしてるんだろう?」
ポン、と裂は幻洛の肩を軽く叩いた。
種族は違えど、同じ生き物であることに変わりはない。
いくつもの任務を重ねれば、疲れが出るなど当たり前の事である。
「何だ、心配してくれているのか。優しい奴だなあ裂は。」
「うわ!何だコイツくっつくな!酔っ払いか!」
泥酔したように肩を回す幻洛に、裂は肘鉄を食らわせてなんとか脱出した。
軽く乱れた服を直しながら、裂はチラリと幻洛に視線を向ける。
「ったく、…お前、ここ最近生き生きしているよな。何かいい事でもあったのか?」
「…そうか?」
察するような物言いに、幻洛は特別驚きはしなかった。
一応は心当たりのない素振りを見せるも、内心では肯定していた。
言わずとも、いずれは知ることになるのだろう。
幻洛はそう思っていた。
「…まあ、浮かれるのはいいが、任務と休みの抑揚はつけておけよ。」
そう言いながら、裂はこの場を後にしようと幻洛に背を向ける。
ふと、幻洛は違和感を感じた。
「ん?そう言えば裂、お前今日は朝っぱらから任務なのか?」
普段、裂は夜中に村の巡回を行なっている。
その裂が自分と同じ時間帯に巡回任務をしているなど、この仕事に就いた当初以外は無かったことだ。
「ああ、少し調べたいところがあってな。夜間の任務はナギに代わってもらったんだ。」
今日のナギは夕暮れまで休暇となっている。
きっと今頃、恋人のふゆはと逢瀬を楽しんでいることだろう。
実質、任務時間に決まりも無いため、幻洛はそれ以上聞かなかった。
「…調べたいところ、か。まあ、深追いしないように気をつけろよ。」
「わかっている。幻洛もな。」
互いに別れを言い、2人はそのまま別々の道を歩いていった。
今日も、己の任務を全うする為に。