午の刻。
その日の万華鏡村の空は、暗闇のように厚い雲で覆われていた。
「今日の天気は良くなさそうね…。」
ふゆはは今にも降りそうな雨のように、ぽつりと呟いた。
「…そうですね…。」
この不穏な天気に、伊丹もまた静かに返事を返した。
風を纏い、ザワザワと唸る森。
黒い雲を纏い、光を遮る空。
この胸騒ぎは、一体なんだろうか。
昼間であるにもかかわらず不気味なほど暗がりに包まれた空は、まるで嵐の前の静けさのようだった。
突然、強い風が音を立てながら吹き抜ける。
「!」
ふゆはは吹き抜けた風を追うように振り返った。
その先、万華鏡神社の瓦屋根には、非番である裂の姿があった。
「裂、一体どうし…、」
「アイツ、は…!」
裂は赤縁の白眼で遠くの景色を捉えると、凍りついたような表情で息を呑んだ。
「伊丹!ここを守れ!例の怪異だ!!」
「!!」
裂は吠えるように警告を出すと、瓦屋根を一蹴りし、電光石火の速さでその場を後にした。
伊丹は咄嗟に式神を使い、屋敷に残る劔咲に伝令を出した。
いよいよ来てしまったか。
そう思い、伊丹は拳をグッと握り締めた。
………
「うわあぁぁぁ!!」
「な、何だコイツは!!」
突然の出来事に、村民たちは叫びながら混乱していた。
そこには、例の怪異が放ったと思われる無数の邪狂霊が彷徨っていた。
「さっさと逃げろ!!」
その場にいた幻洛は、邪狂霊から村民たちを守っていた。
「クソッ…!」
迫りくる邪狂霊の軍団に、幻洛は苦虫を噛み潰したように毒付いた。
同じ現場に居合わせたナギもまた、幻洛と同様に無数の邪狂霊を撃退していた。
「幻洛、やはりアイツで間違いないか。」
「ああ、あの日見たヤツと同じだ。…だが、以前より力が増しているな…。」
幻洛はナギと共に例の怪異を見据えると、以前と風変わりしたサマに眉をひそめた。
その身体は以前より巨大化しており、禍々しい気配も一層強く放っていた。
また、対抗手段も学習したのか、触手で覆われた身体から新たな邪狂霊を量産していた。
「…これではキリがないな。」
無限に繰り出される邪狂霊に、ナギは魔刀を構えながら呟いた。
「チッ!厄介なことしやがって…ッ」
幻洛も薙刀を構え、打開できない状況に苛立っていた。
このままでは、こちらの体力切れも時間の問題だ。
その時、幻洛の目の前にいた邪狂霊が何者かによって撃退された。
「お前、は…!」
思ってもいなかった光景に、幻洛は目を疑った。
「旦那!村民は俺たちが守ります!」
「今のうちに、ヤツを!」
あの日、邪鬼化して伊丹を襲った鬼族の少年だった。
少年はその家族と共に、迫りくる邪狂霊たちを手分けして迎撃していた。
「…フッ、良い面構えになったな、お前。」
あの日、怒りに任せて、少年の全てを奪わなくて良かった。
幻洛はそう思いながら、少年の快進撃に笑みを浮かべた。
同時に、張り詰めていた心に少しばかり余裕が生まれた。
「幻洛!ナギ!無事か!?」
緊急事態に急行した裂が到着した。
裂はすぐさま、目の前にいる邪狂霊を忍者刀で一掃した。
「今のところは、な。」
ナギは魔刀を血振りし、周囲の残骸を見渡した。
幻洛も薙刀の石突を地面に落とすと、漸くといった様子で一呼吸置いた。
「裂、お前も以前見た怪異で間違いないか?」
「ああ。しかし、以前より強化されたようだな。…まあいい、あの日の決着を付けてやろう。」
幻洛と裂は、目の前で立ちすくむ例の怪異に目をやった。
まるでこちらからの攻撃を待っているかのように、怪異は身体の触手を沸き立たせながら仁王立ちしていた。
各々武器を構え直し、戦闘態勢に入った。
「ヤツはただの邪狂霊ではない、警戒してかかれ!」
幻洛は声を張り上げると、そのまま地面を蹴り、怪異へ立ち向かっていった。
「数ならこちらの方が有利だ、全力で行くぞ。」
ナギも続き、魔刀から強い魔力を解き放った。
「ッハハ!ブチ殺す…ッ!」
裂は頭巾を深々と被ると、先程までとは別人の如く狂気的な笑顔で怪異に攻撃を仕掛けた。
一斉攻撃にかかる警護隊に、怪異も触手を増やし素早く対抗した。
その見た目の変化と共に、攻撃力・守備力も前回以上に強化されており、嘲笑うかのように複数の攻撃を繰り出した。
「ハッ…!」
ナギは魔刀を振り翳し、迫りくる触手を一刀両断した。
同時に魔力を解き放ち、怪異以上に禍々しい衝撃波を繰り出した。
「もっと足掻いて楽しませろ…!!」
裂は物陰に身を同化させながら、素早い攻撃を繰り出した。
犬神の力である祟で無数の忍者刀を生成し、怪異めがけて一斉に突き付けた。
「失せろッ!」
幻洛は薙刀を構え、怪異の鎌と化した腕を弾き飛ばした。
そのまま攻撃の手を緩めることなく、妨害する怪異の触手を断ち切った。
数で圧倒しているとはいえ、通常の邪狂霊のような振る舞いに、幻洛たちは違和感を抱いていた。
「ハッ、コイツ、殺る気あるのか…!?」
裂が物足りないように不満を表すと、怪異は溶けるように地面へと身を晦まし、そのまま万華鏡神社へと向かっていった。
「…!!」
幻洛たちはしまった、と思うも、時は既に遅かった。
例の怪異は”あえて”幻洛たちをここに集わせただけだった。
「あの野郎…ッ!」
幻洛は奥歯をギリッと噛み締め、万華鏡神社へと地面を蹴った。
「急ぐぞ、幻洛。」
ナギは幻洛を促し、その背を追った。
そして裂も続き、邪狂霊たちの屍を跨ぎながら万華鏡神社へ急行した。
………
「…やはり来ましたか…。」
万華鏡神社の大きな瓦屋根の上に立ち、伊丹は錫杖を持ちながら、遠くに見える怪異の姿と、目の前に押し寄せる邪狂霊たちを見下ろしていた。
「こちらも、全力で立ち向かうしかなさそうね…。」
ふゆはも伊丹と共に立ち、武器である巨大な筆を携えながら初めて見る禍々しい姿の怪異を眺めていた。
伊丹から結界の術を習った日、模擬戦として対峙した邪狂霊とは比べ物にならないくらいの禍々しい気配に、ふゆはは緊張のあまり目を伏せてごくりと唾を飲んだ。
しかし、もう、あの頃の自分とは違う。
大切な人を守るために。
「絶対に、負けない。」
ふゆはは再び目を開けると、キッとした目つきで怪異を見据えた。
「ハハッ、これはまた随分と厄介そうなバケモノに成り果てたな…。だが、ふゆはちゃんに手出しはさせない…!」
ふゆはたちと共に待機していた劔咲は、以前よりも力を増した怪異に苦笑いしながら巨大金属武器を構えた。
そのままジャラリと鎖を鳴らすと地面を蹴り、迫る邪狂霊の軍団に突っ込んでいった。
「はあっ!!」
劔咲は構えた武器を振り下ろし、邪狂霊をまとめて薙ぎ倒した。
まるでイカヅチのように轟く劔咲の攻撃は、周囲の敵を難なく一掃していった。
劔咲が万華鏡神社前で守備に徹していると、幻洛、ナギ、裂も合流した。
「チッ!小癪な真似しやがって…ッ」
裂は到着と同時に、劔咲に加勢するように邪狂霊たちを追撃していった。
「裂!あまり深追いはするなよ!」
戦いになると周りが見えなくなる裂に、劔咲は思わず声をかけた。
途端に、劔咲の背後からザシュッと肉が引き裂ける音が鳴った。
振り返ると、そこには邪狂霊が無惨な姿で息絶えていた。
「…そういう劔咲も気をつけろ、ガラ空きだぞ。」
裂はいつものような冷静な顔で、忍者刀を血振りしていた。
「フッ、私としたことが、裂に貸しを作ってしまうとはな。」
思わぬ展開に、劔咲は自らの闘志がグッと高まった。
その思いを糧に、劔咲は再び邪狂霊へと突き進んでいった。
裂もまた、劔咲と共に敵を一掃していった。
………
「…みんなを、守る。以前の私とは違うのだから。」
ふゆはは万華鏡神社に迫る邪狂霊めがけて、無数の呪符を繰り出した。
そして、自らの武器である巨大な筆で足元に五芒星を書くと、鮮やかな光と共に呪符が邪狂霊めがけて飛び交った。
「散りなさい。」
ふゆはは言い放つと、呪符が邪狂霊に纏わり付き、そのまま硝子を割るように邪狂霊を粉砕していった。
久しぶりの戦いに、ふゆははフウと息を吐いた。
「お見事です、ふゆはさん。…本当に、強くなりましたね。」
傍らで見ていた伊丹は、愛弟子の成長ぶりを心から喜んでいた。
彼女はもう立派な術者だ。
そう思いながら。
「!!」
途端に、次の邪狂霊が姿を現し、二人に襲いかかろうとしていた。
「ふゆはさん。」
「わかっているわ。」
伊丹はふゆはに合図を送ると、ふゆはもその意図を汲み取り頷いた。
伊丹は錫杖を構え、ふゆはは巨大な筆を構えると、その術を繰り出した。
十二支の術だ。
伊丹は遊環をシャンと鳴らし、ふゆはは足元に呪文を書いた。
途端に、一匹の大きな辰が現れ、邪狂霊に突進していった。
「はあっ…!!」
伊丹とふゆはは辰を操り、邪狂霊を大きな牙で噛み砕いた。
敵の流れが落ち着き、ふゆははホッと一息ついた。
「…少しは、貴方に近づけたのかしら…。」
「ええ、僕は十分にそう思っていますよ。」
伊丹はふゆはとの共闘に、嬉しそうに笑みを向けた。
突然、二人の足元に転がっていた邪狂霊の屍がゆらりと起き上がる。
「!!」
まだ、仕留め損ねていた敵が居たようだ。
伊丹は咄嗟にふゆはを庇おうと錫杖を構えると、何者かによって邪狂霊はとどめを刺された。
倒れた邪狂霊の元にはナギの姿があった。
「ナギ…!」
緊迫していた伊丹とふゆはに安堵の表情が戻る。
ナギは周囲の邪狂霊の残骸を見渡した。
「ふゆは、伊丹、平気か?」
「ええ、こっちは大丈夫よ。」
ふゆはは駆け寄り、ナギの無事も確認した。
「…ナギ。」
伊丹は神妙な面持ちでナギに近づいた。
「ふゆはさんを頼みます。…ヤツの狙いは、おそらく僕です。」
僕がここに居る限り、ふゆはさんにも危害が加わってしまうかもしれない。
そう付け加えると、伊丹は思い詰めるような表情でナギを見つめた。
「お願いします、ナギ。」
「!」
伊丹が何をしようとしているのか、ナギは察した。
思わず止めに入ろうとしたものの、その真剣な眼差しに言葉を詰まらせた。
伊丹とは長い付き合いだ。
今は、彼の愛弟子に掛けた思いを尊重すべきなのかもしれない。
ナギは表情を変えないまま、伊丹の肩に手を添えた。
「…伊丹、あまり無茶な真似はするな。」
「フフッ、僕を見くびられては困りますね。」
伊丹は儚く笑いながら、その場を後にするように背を向けた。
「伊丹…っ!」
ふゆはの心配そうな声に振り向きながら、伊丹は笑みを向けた。
そして再び前を向き、先方で幻洛と争う怪異をキッとした目つきで睨みつけた。
「…まだ懲りないのなら、前回以上にいたぶってあげますよ。この愚か者。」
そう呟くと、万華鏡神社の瓦屋根を一蹴りし、幻洛の元へ急行した。
………
「…そう安々と進ませるか。」
幻洛は万華鏡神社の前で仁王立ちになり、例の怪異と対峙していた。
「俺から伊丹を奪うつもりなら、…二度と奪いたいと思えないようにお前の心ごとぶった斬る!!」
幻洛は自らを奮い立たせるように叫び、薙刀を構えながら怪異に攻撃を仕掛けた。
幻洛は地面を蹴り、怪異に薙刀を振り翳した。
同時に、怪異も鎌と化した腕で対抗し、ギンッ、と高い金属音が周囲に鳴り響き、砂埃を舞い上げた。
「!!」
幻洛は立て続けに攻撃を仕掛けようとしたところ、自らの背後から呪符が飛び交い、怪異へと襲いかかった。
「これ以上、万華鏡村を荒らすのは許しません。」
声の主に振り向くと、そこには伊丹の姿があった。
「伊丹ッ!お前、何故ここまで来たんだ…!」
幻洛は思わず声を荒らげた。
大切な者を、伊丹を守るためにも、これまで前線で強敵と戦ってきた。
そんな危険な場所に伊丹が来るなど、幻洛は想定していなかった。
絶え間なく襲いかかる怪異の触手を、伊丹は呪符を使い華麗に迎撃した。
「幻洛さんの背中を守るためです。…それだけの理由では足りませんか?」
「伊丹…。」
伊丹は幻洛に背を合わせると、即座に結界の術を展開した。
「ッ…!」
背中に感じる伊丹の存在に、幻洛は一層闘志が高まった。
「俺と伊丹を引き裂こうとした罰、その身で償え!!」
幻洛は吠えるように叫ぶと、薙刀を構え、怪異に向かって地面を蹴った。
「僕から幻洛さんを引き離す愚か者には、それなりの制裁を受けていただきます!」
伊丹も静かに闘志を示すと、錫杖を構え直し、幻洛の後に続いた。
伊丹は結界の術を維持しながら、周囲に無数の呪符を展開した。
「は…!」
そのまま錫杖の遊環を鳴らすと、呪符が光り輝く矢に姿を変え、そのまま怪異に勢いよく突き刺さった。
怪異は突き刺さった無数の矢に悶えるように、身体の触手を沸き立てた。
「はあッ!!」
幻洛は隙を見て、怪異の片腕を薙刀で斬り落とした。
バッと鮮血が飛び散り、辺りを真っ赤に染め上げた。
何かが、おかしい。
幻洛が若干の違和感を感じるも、時は既に遅かった。
「!!」
伊丹は続けて術を繰り出そうとするも、目の前に映った者の姿にピタリと動きが止まった。
それは怪異のはずが、怪異の姿ではなかった。
「幻洛、さ、…?」
伊丹の目の前に現れたのは、禍々しい気配を放つ幻洛の姿だった。
幻洛の姿に化けた怪異は、この時を待っていたと言わんばかりにニヤリと口角を上げた。
「ッ…!?」
ほんの一瞬の気の緩みだった。
伊丹が繰り出した結界は緩み、そこを掻い潜るように幻洛の姿に化けた怪異が詰め寄った。
怪異は触手を露わにし、そのまま伊丹の首元に巻き付いた。
「ん、ぅ…っ!」
巻き付く触手が口を塞ぎ、伊丹は声を上げることすら出来なかった。
伊丹が抵抗しようとした瞬間、その足元から暗闇に包まれた亜空間が現れた。
怪異は、そのまま藻掻く伊丹を亜空間に引きずり込もうとしていた。
「伊丹ィッ!!」
幻洛は叫びながら、咄嗟に伊丹のもとへ急行した。
伊丹が、飲み込まれる。
その寸の差で、幻洛は助けを求めるように伸ばされた伊丹の手を掴んだ。
幻洛はそのまま、怪異に飲み込まれる伊丹と共に、その場から忽然と姿を消した。
辺りは不気味なほど静まり返り、あの邪狂霊たちも姿を消していた。
「幻洛!!伊丹!!」
近くで邪狂霊たちを相手にしていた裂は、事の異変に駆け付けるも既に遅かった。
「嘘、だろ…ッ」
裂に続いてきた劔咲も、忽然と姿を消した幻洛たちに、現実を受け入れきれず言葉を詰まらせた。
裂たちに続き、万華鏡神社で邪狂霊を撃退していたナギたちも駆けつけた。
「ッ…!」
日頃表情の乏しいナギが、この事態に苦渋の表情を浮かべていた。
「伊丹…ッ!そんな、幻洛まで…、いや、いや…ッ」
ナギと共に駆けつけたふゆはも、絶望的な事態に声を震わせた。
自らの師であり親代わりでもある伊丹、そして同じく親のような存在である幻洛が忽然と姿を消し、ふゆはは頭の中が真っ白になっていた。
残されたのは、幻洛の武器、薙刀だけだった。
ふゆはは目の前の状況を受け入れることが出来ず、そのまま膝から崩れ落ちた。
幻洛の薙刀に、震える手でそっと触れる。
途端に、ポツリと一滴の雨が落ち、その頬を伝っていった。
「いやあああぁぁぁぁッ!!」
ふゆはの甲高い悲鳴が、薄暗い万華鏡村の空を雷のように突き抜けた。
勢いよく降り始めた寒雨が、ふゆはたちの絶望を表すように万華鏡村を冷たく支配していった。