「こんな感じ…かしら…」
夕立を予感させる冷たい風が吹く中、ふゆはは屋敷の庭園で結界の術を身につける為に励んでいた。
「飲み込みが早いですね、結界の連結部分も安定しています。流石、ふゆはさんです。」
ふゆはは術を覚えることが本当に早かった。
これも、彼女の意志の強さの為なのだろうか。
「結界の連結部分は、己の精神の乱れによっても崩壊しやすくなります。今の感覚を、よく覚えておくように。」
ここまでは、基礎中の基礎とも言えること。
関門は、すぐ先にあった。
「…さて、本題に入りましょうか。」
「!」
いつもより声音の低い伊丹。
それが合図かのように、突然、冷たい風が強く吹き付ける。
陽の光が、雲により遮られた。
伊丹の隣には、あり得ない者の姿があった。
「なん、で…」
「ああ、安心してください。これも僕の術によるものです。」
怪異の別名、『邪狂霊(ジャキョウレイ)』だ。
禍々しく霊気を放ち、怨み、憎しみによる唸り声を上げ、
強すぎる怨念の為か、その姿はとても生き物とは思えないほど崩れ、口は裂け、眼は顔全体に増殖し、腕や脚には蛆虫のようなものが生えていた。
まさに”邪で狂った霊”の名の通り、完全な異形となっていた。
こんな”もの”が、術で形成されているなどーーー
「きゃっ…!」
目の前の現実を受け入れきれていないふゆはに、邪狂霊は容赦なく襲いかかった。
ふゆはは酷く動揺していた為、結界は呆気無く崩壊する。
「痛、っ…!」
崩壊した結界から邪狂霊が入り込み、容赦なくふゆはに攻撃を仕掛けた。
蛆虫のようなものが生えた腕に殴り飛ばされ、ふゆはは庭園の外壁に強打する。
「本物の邪狂霊は、待ってくれるほど優しくありませんよ。」
「ッ…」
邪狂霊に続き、ゆっくりと伊丹が歩いてくる。
「言ったはずですよ。結界そのものを維持するには、気力と体力が必要になる、と。」
そう、これは結界の術を学ぶ為に行われている鍛錬。
いつもの、いつも通りの、術を身につける、自分の師との鍛錬のはず。
なのに、どうしてだろうか。
「ぐっ、…!」
今のふゆはにとって、伊丹すらも恐怖の対象であった。
いつもの、伊丹のはずなのに、伊丹には見えない、これじゃ、まるで…、
「立ちなさい、ふゆはさん。貴方が習得したい術はこの程度だったのですか?」
「!」
ふと、我に帰るふゆは。
今、自分と敵対しているのは、この偽物の怪異なのだ。
「っ…!」
意識が朦朧とする中、気力を振り絞って立ち上がる。
同時に、邪狂霊が再び襲いかかる。
「ひ、ぐっ…!」
咄嗟に、自身の周りに結界を形成し身を守る。
暴力的な圧力が結界越しにのしかかり、蹌踉めき、膝をつきながらもふゆはは必死に耐えた。
目の前に、あの悍ましい邪狂霊が、泣き声にも似た叫びを上げながら、血走った複眼でこちらを凝視している。
直視出来ず視界を遮るも、脳裏に目の前の邪狂霊が映り込み、全てが支配される。
本来なら、こうなる前に伊丹やナギたちが自分を守っていたはずなのに。
「この状況を三十秒耐えなさい。耐えられれば、今日の鍛錬は終わりにします。」
今の伊丹は、”あちら側”にいる。
『自分の身は自分で守りたい。』
そう、これは自ら望んだ結果だ。
だから、助けなど来ない。
これで、良かったんだ、と。
ふゆはは自分で自分の心を偽り、そう思い込ませる。
…助けてほしいなど、今更…
「いっ…!!」
結界に、亀裂が入る。
ここで崩されたら、全てやり直しになる。
この状況を脱するには、ただひたすら耐えなければならない。
時の流れを、残酷なほど遅く感じた。
先に強打した時の痛みなど、今はもう感じる余裕すら無かった。
今、何故この様な状況下にあるのか。
今、誰と敵対しているのか。
今、自分がどの様な姿をしているのか。
「ぐ、あ”ぁぁぁッ!!」
ふゆはは腹の奥底から声を絞り出す。
スッ…と、のしかかっていた圧力が音もなく消えた。
伊丹の言う時間通り耐えきったのだ。
「か、はっ……」
身体が、精神が、全てから解放される。
感覚の鈍った全身に、冷たい水滴が当たったように感じた。
土砂降りの雨が降っていたことに、今、ようやく気がついたのだった。
「…!」
崩れ落ちるふゆはの姿に、伊丹は何かに気がついたかのように一瞬だけハッとした。
伊丹は倒れるふゆはに駆け寄った。
「よく頑張りました。今日はこれまでにしましょう。」
「…はっ…、は…」
冷たい雨と共に、いつもの伊丹の声が身体に染み込む。
「…やはり、僕が思っている以上に、貴方はお強いようですね…。」
そう言う伊丹は、いつもの優しげな表情をしながらもどこか悲しそうだった。
そんな伊丹が目に映り、ふゆはは徐々に意識がはっきりしてきた。
あの恐怖すら感じた伊丹は、もうそこには居なかったのだ。
「…ふゆはさん。」
「っ…!だ、いじょ…ぶ、だから…、」
俯いたままのふゆはに、伊丹は心配そうな声で手を差し出した。
しかし、咄嗟に起き上がろうとするふゆはに、その手は払い除けられる。
「………本当に、どうしても辛くなったら、身体も心も、壊れる前にちゃんと言ってくださいね…。」
「!」
ふゆはの心の中で、張り詰めていた何かが崩れだした。
「その時が言いづらい状況でも、僕は必ず、ふゆはさんの言葉を聞き入れますから。嘲笑ったり、見放したりはしませんから。…これだけは、約束させて下さい…。」
一番言ってほしかった言葉、だけれども、一番言わないでほしかった言葉。
感情が、グシャグシャになる。
「…どう、して…」
「え…?」
「どうして…、どうして貴方はそうやっていつも優しいことを言うの…。」
ふゆはは俯いたまま、己の前に座り込む伊丹の袖を掴む。
力を使い果たした反動により、その小さな拳はきちんと握ることは出来なかったが。
「私は…、いつまでも貴方の足手まといになりたくない…。貴方の弟子になって随分経つのに、怪異に巻き込まれた時はいつも守られてばっかりで…、いつかは、どうにかしなくちゃって、思っている、のに…っ」
声を震わせながら、大粒の涙が雨と共に零れ落ちた。
本心は助けを求めていた。
しかし、その思いを感情で押し殺していた。
自分で自分を殺してでも、伊丹に伝えた志だけは守ろうとしていた。
「足手まといだなんて…、そんなこと、一度も思ったことはありませんよ…。」
伊丹の優しく温かい声が、冷たい雨に混じり降り注ぐ。
「師として、親代わりの身として、貴方を守るのは当然の事です。ふゆはさんが、僕の足手まといになりたくないという気持ちと同じに、僕も、ふゆはさんを危険に晒したくないのです。」
その言葉に、ふゆははようやく顔を上げた。
涙で視界はぼやけるも、伊丹が優しく微笑むのがわかった。
「僕だけではない、ナギも、幻洛さんも、劔咲さんも、裂さんも、みんな同じ気持ちでいるはずです。」
「…。」
ふゆはは目頭に涙を溜めながら、目の前にいる師を見上げた。
「…ふゆはさんの事を大切に想う仲間ですから…。」
それは義務感でもない、当たり前の想いだった。
「………随分と、辛い思いをさせてしまいましたね…。」
「…。」
伊丹はそっとふゆはを包み込むと、淡い藤色の頭を撫でながら、赤子をあやすように背中を優しく叩いた。
それはまるで、本当の親のように。
「…ごめ、んなさい…。わたし、は…そんな…。」
「いいんですよ。弟子の心を理解できなかった僕にも非はあります。」
おあいこですね…、そう伊丹は笑った。
「…さ、屋敷へ戻りましょう。風邪でも引いたら大変です。」
ふゆはは頷き、土砂降りの雨が降る中、伊丹と共に屋敷へ足を進ませる。
『少しでも貴方に近づきたい』
その思いが今、確実に、ほんの少しだけ前進したような気がした。
………
「おつかれ。今日はまた随分と派手にやったようだな。」
晩刻、皆で卓袱台を囲み夕食をとる中、劔咲は言った。
劔咲はこの屋敷で家事を担当している混血の鎌鼬だ。
術などの能力は持っていないが、女という性でありながらもかなりの怪力を持ち合わせている。
彼女のその怪力は成人男性5人分に相当する。
「お騒がせしてすみません。今回は邪狂霊を交えた模擬戦でして…。無論、その霊も僕の術ですが。」
伊丹が申し訳なさそうに苦笑いをしながら陳謝した。
「邪狂霊も術で成せるのか。霊術といい妖術といい、奥が深いな。」
伊丹と向かいに座る裂が興味津々に答える。
裂は混血の犬神で、この万華鏡神社に属する警護隊の一人だ。
いわゆる忍びと呼ばれる者で、伊丹やふゆはが扱う術とは異なる、忍術に長けている。
陰を使った戦い方を得意としているため、村が静まり返った夜間を主に見回りとして活動している。
「あくまで偽物ですよ。それこそ、裂さんの忍術だって…」
と、それぞれが持つ固有能力について話が盛り上がる。
「…うう、やっぱり疲れた…。」
皆と卓袱台を囲んでいるという日常の安心感により、疲れをズッシリと感じるふゆは。
いつも正座で背筋良く食事をしているが、今日は糸が切れた操り人形のようにグニャリと曲がる。
鍛錬の際にできた傷が、未だにズキズキと痛む。
「それだけ我武者羅にやれば当たり前だ。もっと自分に正直に生きろ。」
これだからふゆはは…、と嘲笑う幻洛。
幻洛も、この万華鏡神社の警護隊の一人だ。
混血の覚(サトリ)だが、幻洛はふゆはたちのような術を使うことは出来ない。
しかし、生まれ持つ覚の力により察知能力が高く、相手の思考を見透かす力や、遠い景色を見ることができる千里眼を所有している。
また、知略や武力ともに高く、文武両道に長けている者だ。
「…私にだって、それなりの矜持があるの。」
ムスッと、ふゆはは頰を膨らませ、幻洛を睨みつけた。
「…誰にだって危機に陥ることはある…。」
それまで黙々と食事をしていたナギが口を開く。
裂や幻洛と同じく、ナギも万華鏡神社の警護隊の一人。
そして、ふゆはとは恋仲の存在でもある。
ナギは身体の半分が魔物で出来ている半魔という種族で、万華鏡村に住むアヤカシたちとは少し異なる存在。
伊丹は昔から彼のことを知っているようだが、周囲に危害を加えることは無く、今では普通の一村民として万華鏡村で生活をしている。
そんなナギの固有能力は魔術で、計り知れない力を持っている。
「…その状況下で、仲間に助けを求めるのも一つの戦術だ…。」
取り返しのつかない事になる前に、な…。
そう、ナギは淡々とふゆはに告げた。
「わ…、わかってるから…。」
普段より無口無表情なナギから直接的な物言いをされ、ふゆははシュンと狐耳を下げる。
「とにかく、今日はゆっくり休んでください。また明日、気持ちを切り替えていきましょう。」
ふゆはの隣に座る伊丹が、優しい笑顔で補佐する。
「あ…ありがとう…。」
伊丹の笑顔に救われながら、ふゆはは止まっていた箸を動かし、食事を続けた。
………
万華鏡村がしんと静まる子の刻。
「…!」
ふゆはは自室の布団で横になるも、あの禍々しい怨霊の姿が脳裏で蘇り、眠れぬ夜を過ごしていた。
「眠れない…。」
こんな時間に、伊丹の部屋に行くのも如何なものだろうか。
伊丹も、自らの師である他に、万華鏡神社の神主でもある為、神社の仕事を抱えながら多忙な日々を過ごしているのだ。
流石に、迷惑になることは言うまでもないだろう。
「あ…、」
そう思いながら廊下を歩いていると、居間から明かりが漏れているのが見えた。
こんな時間に起きているのって…
わかりきった疑問を抱きながら、ふゆはは居間の襖を開けた。
「…どうした…。」
黒い羽織を身につけた、フワフワした銀髪の者。
ナギの姿がそこにあった。
ナギは半魔の為、睡眠は三ヶ月に一日しか取らない特異体質を持っている。
その為、今日この日も眠る事なく一人静かに起きていた。
「いえ、その…眠れなかったから…。」
素直に、ふゆはは理由を伝える。
「…眠くなるまで居ればいい…。」
ナギは村の書物に目を通していたのだろう。
書物の山が、きっちりと卓袱台に置かれていた。
表情は一切変えず、ナギは再び書物に目を落とした。
暫く、長い沈黙が続いた。
「あの…、」
先に沈黙を破ったのはふゆはだ。
というより、ふゆはが発言する他無かった。
「私、これからどうしたらいいのかなって、思ってて…、」
ふゆはは夕食の際にかけられた言葉を引用する形でナギに質問した。
「正直、私はみんなのように力が強いわけでもないし、…そもそも、身体だって丈夫じゃないし…。」
ふゆはは生まれつき病弱体質で、季節の変わり目などは体調を崩してしまうこともしばしばある。
故に、怪異との戦いでは前線に出ず、常に伊丹や他の仲間を援護する形で対応してきた。
同じ純血の妖狐である伊丹とはかけ離れた力の差を、ふゆははとても気にしていた。
少し間を開けて、ふゆはは言葉を続けた。
「でも、いつまでも守られてばかりではいけないし、みんなに迷惑ばかりかけたくないって思ってて…。」
「…。」
ナギはぽつりぽつりと呟くふゆはの言葉を静かに聞いていた。
「…俺は、迷惑とは思っていない…。」
「!」
伊丹と同じ言葉に、ふゆはは俯いていた顔をハッと上げた。
「…むしろ、ふゆはを守ることが、俺の存在意義だ…。」
「え、あ、…そ、そう…。」
あまりにも直球な物言いに、ふゆははいたたまれない気持ちでいっぱいになった。
普段口数が少ないが、何事も一切遠回しに言わないナギ。
それがふゆはにとっては時に吉でもあり、場合によっては心を惑わす凶でもあった。
「…故に…、」
困惑しているふゆはに、ナギは静かに言葉を加えた。
「…結界で外敵から身を守る際、己ではなく、仲間を守る気で立ち向かえ。そうすれば、事はそう難しくないはずだ…。」
「!」
この言葉が、予想以上にふゆはの心に突き刺さった。
『ナギも、幻洛さんも、劔咲さんも、裂さんも、みんな同じ気持ちでいるはずです。』
『ふゆはさんの事を大切に想う仲間ですから…。』
ふと、ふゆはは模擬戦中の伊丹の言葉を思い出す。
もしかしたら、伊丹が言っていた事は、今ナギが口にした言葉に紐付いているのではないだろうか。
「ナギも、その、…そういう思いで立ち向かっているの…?」
ふゆはは戸惑いながらも、率直に、今自分が聞きたい事を問う。
「…そうだな…。」
ナギもまた、率直に、ふゆはの問いに返答する。
ふゆはは心の中で、厚い靄が無くなるのを感じていた。
「………ありがとう、ナギ。…私、伊丹の鍛錬、頑張るわ。」
何かを確信したふゆはは、ナギの目を見ながらハッキリと答えた。
「…無茶はするなよ。」
ふゆはの熱い決心を感じたナギは、細やかながらもフッと笑みを向けながらハッキリと言葉を放った。
仲間を守るために。
目の前にいる大切な存在を守るために。
明日もまた、皆と平和に暮らせるよう願いながら。